楓蔦黄屋
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2020年11月07日(土) |
甲寅・立冬・おらおらでひとりいぐも |
映画「おらおらでひとりいぐも」を観たよ。
爆泣きでした。
いい映画だった。
自分の中に何人もいろんな人がいて、 彼らがいつも話しかけてくる。自分と会話する。 過去の自分も、いつもそばにいる。
私はそれを自分だけがそうなんだとずっと思っていたので、 まえに舞台「愛犬ポリーの死、そして家族の話」ではじめて その現象は他の人にも起こりうることなのだと知って 驚愕して、そしてまるで自分の人生をビデオで観ているような感覚に陥って 爆泣きしたことがある。
だから今回も、桃子さんが同じような人だと知って 「ああ、あるあるこの感じ」と終始こころのなかでうなずいていた。 年をとるとそれが顕著になっていくパターンもあるんだ、と知る。
自分のなかのたくさんの、 きっとはじめは自分をつくる一要素だったものが 年を重ねるにつれてすっかり自分になった、自分たち。 思い出。過去の自分。 彼らがにぎやかに、背中を押してくれて山道をのぼるシーンで爆泣き。
昔、娘のために夜なべして作ったスカートを、本当はイヤだったんだと言われたと 酔っ払いながら言うシーンで爆泣き。
雪の帰り道にマンモスを連れて歩く桃子さん。
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今住んでいるこの場所が終の棲家かもしれないし、そうでないかもしれない。 いずれにしろ、年をとった自分はどんな気持ちで世の中をながめているのだろうと ふと思う瞬間が、やけに多くなった。
不惑を前にして、少しずつ心がおばさんとしての自分を受け入れ始めているからかもしれない。
その矢先のこの映画。 桃子さんには共感する部分が多くて、 鵜呑みにはしないにしろ、この先のヒントをもらったような気がして心強かった。
はじめてつきあった人と、そのまま付き合い続けて結婚できた。 桃子さんの言葉を借りれば「惚れぬいだ」人に、おそらくなるだろう。
どういう別れ方をするんだろうと思う。 自分が先に死ねたらいいけど、とも思う。 でも先に死んだらむこうが本当に可哀想だな、とも思う。
むこうが先に逝ってしまったら、私はほんとうにひとりぼっちで、 誰とももう言葉が通じなくなる。
そのときにどうすればいいだろうと、常日頃思っている。
そのときがきたら、桃子さんのことを思い出せるんだろうか。
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映画があまりにも面白くて、帰りに寄った本屋さんで原作の本を買った。 原作が読みづらそうだったらやめとこうかなとも思ったが、 ぺらっとめくって一瞬で読みやすいものだとわかったので即買う。
そして「朝が来る」と「星の子」も買った。 ふたつとも観たくてまだ観られていない映画の原作で、 もしかしたら上映期間が終わってしまうかもしれないなと思っていたので がまんしきれず買ってしまった。
群ようこの新刊らしき本があって、 私はさいきんになってようやく「ごはんをつくる」ということに 興味が出てきたのでそれも買った。
ひさびさにたくさん紙の本を買った。
子どもへのお土産にこれまたたくさん本を買って、けっこうな額になってしまった。
自分の本は、家に帰ってあとで電子で買ってもいいかなと一瞬思ったのだが、 いんや待ちきれない!と思ってそのまま買った。
この「待ちきれない!」が満たされれば 紙だろうが電子だろうが、媒体はどっちでもいいと思う人間なんだな私は、とつくづく思う。
バスを待つわずかな時間で読む。 外で読むなら意外と紙のほうが読みやすいんだな。
私の職業を知った、知り合いの人からこないだ 「紙の本はやっぱりなくなってほしくないですよねえ」と言われた。 社交辞令だなーとわかったので、「いや正直どっちでもいいです」とは言えなかった。
木板でも石板でも、黒板でもホワイトボードでも、 どっかの道や壁にかかれてても、 面白ければ私は読むし、それでいい。
紙の本を求める人は、自分の人生の一冊がほしい人であり、 特にこだわらない人は、そこに書いてある情報だけがほしいんだと とある本で読んだ。
うるさいな。と思う。人の楽しみに水さすな。と思う。
しかし出す側の立場だと紙のほうが嬉しい。まだ、紙が嬉しい。
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原作の桃子さんは、映画よりももっと根深い問題を抱えていて、 これをもし映画でも描いていたら、印象がずいぶんちがっただろうな、と考える。
この映画のいいところは、桃子さんを外側から眺める視点が多いところだ。 いわゆる「よく見かけるお年寄り」感を出しているところ。 何も考えずにただ生きているという雰囲気を漂わせておいて、 内側は、若い皆さんよりももっともっと多層になっているんだよ、というギャップ。
私の中のたくさんの人たちはもっと増えるのかと思うと楽しみになった。
これを映画にしてくれた、すべての人にありがとうを言いたい。
エンドクレジットで「監督:沖田修一」の文字をみて、あれっと思った。 調べたら「南極料理人」の監督でビックリした。 私の一番好きな邦画の監督だった。
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桃子さんは、地球46億年の歴史に想いを馳せる。 猿から人間になろうとした生き物の、その最初の歩みが 自分にも宿っていることを感じている。
私もたまにほんのちょっとだけ馳せる。 でもふだん馳せるのは、せいぜいが江戸時代あたりまでだ。
自分の遺伝子に刻み込まれている、顔も知らない自分の祖先の人格が ときおり顔を出しているのかもしれないと思う。
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一人称のあり方も、ああそうだな、と感じるところが多かった。
私は、自分の考えや感情を的確に相手に伝えたいとき、 その内容によって口調を変えたほうがしゃべりやすいのだが、 その口調によってさらに一人称も変える。
「私」のときもあるし「あたし」もあるし、 「僕」にもなるし「俺」にもなる。 すべて口調が変わる。
そのほうが頭の外にでてきやすいから変わる。
でも、変えて話す相手はこの世でただ一人だ。 他の人には正直、伝わろうと伝わるまいとどうでもいいと思っている。
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その勢いで「朝が来る」も読む。
爆泣き。
子どもを産めたこと。子どもを育てていること。 それがこんなにも得がたく幸せなことだと、心の底から実感する。 贅沢すぎるほど私は贅沢なのだ。
これの映画、しかも監督は「あん」の河瀬直美さんだ。 (だからプライムに出てたのか) 映画を観たらきっと、件のつまんない映画の古くささなんて風の前の塵に同じだ。 観たいな。
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「星の子」はこれから読む。
楓蔦きなり
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