楓蔦黄屋
もくじ|←昔のを読む|新しいのを読む→
定期的に夜更かしになる。
ものすごくわかりやすい黄体後期の症状だ。
以前はこの眠れない夜を悩んでいたが、 最近は眠れないならそういうもんなんだろうと 受け入れて起きている。
起きているからこうやって日記も描いたりする。 2:54。
とくに今は連休中だし そもそも私以外の家族はみんな早起きだしで 私が起きなくてもまったく問題ないというのはあるんだが、 そもそも明日は早く起きなきゃ!という日でも、眠れなくて焦ったりはしない。
ついこないだまで、早起きできるようになりたいと切に願っていたが、 それも別に願わなくなってきた。
早起きできなくても家のことは回せるし、 仕事もちゃんとできているからだ。
あと早起きしたらしたで 夕方ものすごく眠くなって夜まで寝てしまう。 夜は家事と育児はたいてい私ひとりでやることが多いので、それはかえって大変によろしくない。 それに夜まで寝たらけっきょく夜更かしになって朝また起きられなくなるのだ。
人はそれぞれ、必要な睡眠時間が異なるというのが最近の医学界の主流な考え方だとかなんとか。
私は12時間必要だ。 12時間寝るとリズムが安定する。 22時に寝て10時に起きるのがベストだ。
子どもの支度のために朝早く起きることもあるが それでも二度寝する。
学校や会社に行かなければならない立場であれば 朝早く起きる努力は必要だと思う。 だけどそれも、12時間睡眠を前提として努力できればどれだけラクだっただろうと思ったりする。 まず中学でも高校でも運動部になど絶対に所属しなかっただろうし、 勉強も学校にいる間だけ集中してやっていたと思う。 塾や予備校も行かない。バイトも吟味して厳選する。
ましてや外に行かなくていい今、 昔よりもラクに生きられるなら、ラクに生きる。
最近まで早起きにこだわっていたのは たぶん呪いかなんかだったんだろう。 早く起きられるショートスリーパー以外が間違っているなんて暴論だ。 睡眠時間によって寿命がどうのこうのも超どうでもいい。
朝は好きだ。 だけど、起きられないから、起きない。 それでいい。
朝に起きなくなってから、不機嫌になることがものすごく減った。 それがすべてを表していると思う。
ラクに生きていく。それが一番だ。
-----
宇多田ヒカルのインスタライブに偶然遭遇したので視聴することができた。
とにかくすごい人というのはもう充分わかっているので、 せっかくだから雲の上の人だと思わずに、まるで友だちと飲んでるみたいな感覚で視聴してみる。 リアルな妄想遊びというか、友だちごっこだ。
私はこの手のライブでわりとよくコメントにも参加する。 もちろん失礼なことなんか言わないが、 仮に私のコメントが相手の目に入っているとして、 こっちが善意のつもりでも微妙な感じで受け取られることは充分考えられる。 というかたぶんやっちまってると思う。ただでさえ私の言葉は相手に通じづらい。自虐でも反省でもなく、たぶんそうだろうなという感じ。
でもそれでコメントしないというのも大変もったいない話だと思うので、 そこらへんはもうあんまり気にしないのがコツだ。
ネットの自分はあくまでリアルの自分が作った架空のキャラクターだ という感覚の頃のネット遊びをしてきた世代だからかもしれない。 あまりネットの自分とリアルの自分が結びついてはいない。結びつくのはアンダーグラウンドなサイトだけだった。今はまるで逆だ。
しかし宇多田ヒカルにリアルタイムでつながれるなんて、ひと昔前には考えられなかった気軽さだ。 しかもイギリスにいるのに。すごい時代だな。
昔、「Automatic」が発売される前日、 雑誌の後ろのほうの小さなモノクロ記事で、宇多田ヒカルの短いインタビューを読んだ。 たしかZipperだったような気がする。何もかも、今では考えられないような記事だ。 でも強烈に惹き付けられた。 バイト先の有線でかかったとき、それがそうだと知らないまま、やっぱり耳が惹き付けられた。
そこからここまで、ずいぶん遠くまできたなあという感じだ。
宇多田さんは可愛らしくて、めちゃくちゃ真面目だった。 すごく真面目にファンからの質問に答えていて、これは質問した人は嬉しいだろうなと思った。 ストイックで誠実だ。いつも人のことを考えているような印象を受けた。
たぶんこの人は、口下手なんじゃないかと思った。 めちゃくちゃしゃべるはしゃべるんだけど、要領よく説得できる人と違って とにかく全部を相手に伝えようと、言葉を尽くす人だなあという印象。
その不器用さが、十代のときにはむしろ強気な印象を与えていたんじゃないかと今思う。
英語でしゃべるときはとてもリラックスしているように見える。 言葉ですべてを伝えようとしてないように見える。 気のせいかも知れませんけど。
-----
やりたい仕事をやれずに仕事の意義を見出だせない人の相談を受けていた。
私はやりたい仕事をやれずにやりたくない仕事をわりと長くやっていたので そのつらさはけっこう体感している。
だけどそのつらさがどこか甘えであることも当時から自覚していた。
私は「やりたい仕事をしてる人」になりたかっただけで、 「その仕事をしたい人」ではないのだと自覚していた。 むしろなんなら、「その仕事をせずに、その仕事をしている人だと呼ばれたい」ぐらいに思っていた。 それはいかんな、と思っていた。
やりたくない仕事をやりながらでも、 その「やりたいこと」をやれる人になりたいと思った。 それぐらいになって初めて、「やりたい仕事をしてる人」になる資格があるんじゃないかと思った。
やりたくない仕事をつまらないと思ってしまう自分ならば、 やりたい仕事をやれたとて、精々その程度に終わるなと思ってしまう。
そして事実、わりと長いことそうだった。
-----
「やりがいのある仕事」とか 「やりたい仕事こそ人生」とか、 そんなフレーズははっきり言って、流行語だ。
どっかの誰かが何かを売るために仕事で産み出したただの商品だ。
私は、10代から20代で、かなりそういうフレーズを骨の髄まで刷り込まれたように思う。
そういう、人の心にスッと入っては掻き乱していくような言葉は、 踊らされるぶんにはある種気持ちのいいもんだが、 自分の実生活と結びつけるのはやめたほうがいい。 話半分に聞いていたほうがいい。
今がつらいなら改善すべく行動するのはいいことだと思うが、 言葉で自分の心をどうにかしようとしないほうがいい。
逆だ。言葉は自分の心でどうにでも変わるものだ。
やりたい仕事があること、 やりたくない仕事をやっていること、 自分がつまらないと思っていること、 自分の日々の生活のこと、 自分の人生とかいうもののこと。 それは全部、まったく別々のこととして分けて考えたほうがいいと思う。 紐付けるとたいていわけわかんなくなる。
私は仕事をがんばるし、 やりたかった仕事ができるというのは本当にありがたいなと思う (というか厳密に言うと、周りがみんなすごいねえと言ってくれるので、きっと自分が思う以上にありがたいことなんだろうなとうすぼんやりと思っている)が、 そのふたつはまったく別々のことであって 生活の中の一部ではあるがすべてではなく、 ましてや人生という概念とは折り合いがつかない。
そういうことを、インスタライブを見て改めて考えた。 きっと他の人たちもそうだと思う。 まるでひとつの映画を観たようだった。 やっぱり宇多田ヒカルってすごいな。
-----
4:12になってる。
楓蔦きなり
|