久しぶりに列車に乗って出かけた帰りの車中で私の向かいの座席に乗り合わせた男子高校生がいました。 4人で一人の携帯電話をまわして、何か楽しそうに話をしています。 聞くともなしに聞いていると、携帯電話で交通事故の瞬間の映像を見ているようです。
「俺、マジ気持ち悪くなってきた」 「次、俺、俺見して」 「ねえねえ、もっとグロいのないの?香田さんが殺されたときの映像、マジグロいからね。俺、今でも覚えてるもん。」 「あれ、マジで忘れられないよねー。」 「すごかった」
いたって軽い雰囲気で話される内容に、私はものすごく嫌悪感を覚えました。
まるでジュースの回し飲みの雰囲気で何を話すのでしょう。 分別の欠如。鈍感な感受性。 絶望的な気分になりました。
しかし、彼らに同情の余地があるとすれば、彼らが生きているこの時代でしょうか。
情報の洪水に晒され流されながら、自ら舵を取るためのモーターはおろか、オールすら与えられていない不幸。
彼らだけでなく、この時代に生きる多くの人の不幸です。
ここで私の言うモーター、オールが意味するものは、自分の必要な情報を選び取る力、その情報の持つ意味を判断する力(政治的倫理的に)などが考えられると思います。
この力を持った人と持たない人を比べたときに、残念ながら後者の方が多いのではないでしょうか。 もちろん、一人一人が情報を選び取ることができるようになることが理想的だし、そのために、教育が多くの責任を負っていると思いますが、教育には時間がかかり、この危機は今ここにあります。
まずは、たちおくれている法的整備が速やかに整えられることが心から望まれます。 すべての規制が取り払われ、情報はすべて公開される流れのなかで、それでもやはり、侵すべかざる領域はあるように思います。
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