2004年11月02日(火) |
教師という蛮族がいる |
やればやるほど教師という人びとと自分の隔たりを感じてしまいます。 私は教師を続けたとしても、教師に染まりたくはないなあと思います。
一般に、教師をやっている人たちは善良な人です。 意地悪しようとか、犯罪を犯そうとか、そういうこととは程遠いところで生活をしています。 でも、私にとってはそういう善良さが物足りない。 何も悪を礼賛するわけではなく、例えば『レ・ミゼラブル』のように単純に割り切れないことに満ちた現実世界のはずなのに、それについて心から話せる人はいないものだなあ、と嘆いているのです。 まったく、心あらん友もがな。
職員室では大きな声で不満を述べる人が力のある人として認められます。 はったりのうまい人は雰囲気でもっていくのです。
つまらないなあ、と思います。
学年会で主任が校長先生の悪口でみんなを笑わせました。 辛らつに批判しました。 私はまったく同感できなかったから、みんなが楽しそうに声をそろえて笑うのを不思議な気持ちで見ていました。 どうやらそれで校長先生に対する批判的立場が共通認識として浸透したようでした。
くだらないなあと思います。
声の大きな先生にすりよる人はかならず力がなさげな先生を見下します。 本質をみようとしない、本質をみる力がない人です。 そして、本質を見ていないということにもまったく気づかないんだから、しあわせな自己完結とも言え、私がどうこう口出しすることでもないのかもしれません。
そういう単純で幸せな教師がしたり顔で口にする教育用語が嫌いです。 大きな声で不満を並べ立てて力を誇示するのと同じように、力がある教師のふりをするために使う教育用語にはなんの実もないのです。
そういう私の職員室でのポジションは“かわいいだけがとりえの、とぼけた新米教師”です。 ええ。私もその方向で振舞っていますから。
本質を見ない人々に迎合して大きな声で不満を述べ立てることなどしたくないです。 そうするぐらいなら、私は隠れ蓑をかぶり職員室での衝突を避け、教室で勝負するべきだと思うのです。
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