きよこの日記

2004年11月09日(火) 三島由紀夫『鹿鳴館』

戯曲の面白さをはじめて知りました。
私が三島氏の文章を読むときの多くは、難解だ、と思いながらもそのコケットリーに引き寄せられて読んでいるのですが、この作品は私の身の丈ぴったりという感じで心から面白がって読めました。
三島氏の魅力の最たるところは人間観察の鋭さだと思うのですが、戯曲という形式だと、登場人物のせりふにすべてが語られる必要があるため、小説や論説の時よりも口語的でわかりやすく書かれ、鹿鳴館を取り巻く人々の心の機微が存分に楽しめました。


朝子「でもまるで昨日お目にかかったばかりのような軽口をお叩きになるところも、二十年前のあなたとそっくり。どうしてでございましょう。私の口からもかるがると言葉が出てまいりますあなたとお目にかかったら物も言えまいと思いましたのに。」

清原「私たちはいつ何時でももう一度昔の時間を生きることができるように、習練を積んで来たのですな。私たちが会う。するとその時から昔の時間がはじまる。少しは目まいもするが、それに乗って行けば忽ちらくらく身が運べる。」

朝子「そうでございましょうか。ふしぎなことにこうしていて、私は少しのぎこちなさもない、自在な思いがいたしますの。空気が俄かに吸いよくなったような。まるで混雑した息苦しい部屋から、俄かに広い野原へ出たような。……私たちはどうしてこんなに自然でいられるのでしょう。」

清原「あなたは自然な感情からあんまり永いあいだ遠ざかっていたからではありませんか?」

朝子「きっとそうですわ。あいが息苦しいものだと思うのは、子どもらしい考えですわね。ごらんなさいまし。こんなに久々でお目にかかったあなたの前で、私の手は慄えてさえおりません。却って手がいつもよりもいきいきとして、翼のような気がいたします。


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