生き死にが全ての人間より分かった所でどうだというのだ。
洋の東西による、宗教観により、物理的現象や化学反応、アポトーシスなどが分かった所でなんだというのだ。
そんな全て他人の、そして回避不能の、全く知識だけの、心の受け止め方だけの、そんなもの。
寝床を用意する。枯葉のような寝床を。
倒れこもうとする。倒れこんだ錯倒で身を汚せば。
枯木の寒巌にさらす。仏教を禅派で打ち壊していくのが。
右肩付け根、前方の神経伝達システムに電気が流れるように痛い。
また、右手薬指、爪を剥がしてストレスの外在化現象が無意識行動を刺激した。
さらに、くだらない。
出鱈目でもある。人の及ばない神意の世界。
コロッセウムが必要なのだ。この狂気には。
生涯年金とバブル以前の日本が作り上げた終身雇用、年功序列が必要なのだ。この凶器には。
不可知と可知、無神と有神、無心と現象、現象と実体、欲とこだわり、出鱈目といい加減、全ての共通項と反対項に還元される構図が必要なのだ。この驚喜には。
この狂喜、直ぐに消え逝く。
直ぐに消え逝き、また待っている。
細胞死が個体のためにあるように、個体死が種のためにあるように、種死が生物のためにあるように、生物死が何者のためにあるか分からないからだ。
だから待っている。
いや、反射的に無意識の世界で殆どその、その強烈さに惹かれている。
全てが、全ての言葉が、装置が、機構が、種や生物が、生活や老いが、余った時間が、知識が通念が、全てがこのためだけに。
私は私をジャンキーと規定するが良いだろう。
そこに1つの抜け道がある。そこに1つの逃げ道がある。
この狂喜から逃げていく道だ。
この狂喜から逃げていく道だ。
この狂喜から逃げていく道だ。
狂気、凶器、驚喜、そして狂喜。
ああ、今度は右米神だ。金属のボールペンで時々突き刺したような、薄くキーンとする偏頭痛。
語りも捨てよう。欲もこだわりも捨てよう。偶然もインチキも捨てよう。そして捨てる事も捨てよう。捨てる事を捨てる事も捨てよう。
無限の連鎖後退、その中に一筋の自然科学的光明があり、けれどその限界も私の死によって明らかだ。
狂喜。尊びもしない。
狂喜。語りも卑下も捉えも苦しみもしない。
狂喜。私の瞼(まぶた)を閉じさせるだけもの。
追記:原題は「狂喜」。「コロッセウム(ラ Colosseum) 古代ローマの大円形劇場。収容人員5万名。75−80年に建造。闘技場として剣闘士の殺し合い野獣と人間の格闘などが行われた。コロシアムとも。」
執筆者:藤崎 道雪