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「 豆まき 」
2005年02月02日(水)



 ならばいっその事、この全てを支え、惑わせ、喜ばせ、自殺に追いやり、人間の進歩を齎し、人生と言う苦しみの楽しみの言葉も作り出した、この錯覚の総体を打ち捨ててしまえば。
 顎を上げて快楽に浸り、ヌラヌラと揺れる肉体を眺め、クルクルと回る舌を合わせ、ロルロルとした粘液で終焉を迎えるその四肢を打ち捨ててしまえば。

 打ち捨ててしまえば、ぴちょんくんのように単純な形状と色彩、限定されたイメージに。
 打ち捨ててしまえば、ぴちょんくんのように愛嬌と純粋、限定された生物の持つ苦しみの連鎖、個体死の必然、環境への対応限界が解放に。

 この日本語の限界にも、この人格の肉体的支えにも、この地球全体の年数にも、原子だけで成り立っているという限界にも、全てにも挑戦できるのではないか。
 このくだらない文章の形式にも、そして皮肉を言い立てる、この観念の錯覚にも二重の意味で挑戦できるのではないだろうか。

 いや、まさに そうである
 いや、まさに そうではない
 だから私は言い立てるのだ。

 言語ゲームなどとは気が優しい。
 所詮ゲームだ。所詮観念内だけの問題だ。所詮原子は関係はない。他の生物は関係がない。
 言語ゲームなどとは気が優しい。

 ああ、苦しい。
 また、堕ちていく。
 ああまた、こうして錯覚の総体へ堕ちていく。
 飛び立とうと飛び立とうと試みて加速する。
 けれども、何時の間にか血糊がべっとりと滲み出て地面へと一緒に引きずり込むのだ。

 果てしなく広がる大空が綺麗だ。
 永遠に優しくなく、言語ゲームにも染まらず、感情を、理性を、聖性を、至高を決して持たない大空が綺麗だ。
 だから、私は。


追記:「惑(まど)わす」、「齎(もたら)す」、「顎(あご)」、「浸(ひた)る」、「眺(なが)める」、「粘液(ねんえき)」、「終焉(しゅうえん)」、「所詮(しょせん)」、「堕(お)ちる」、「血糊(ちのり)」、
注記1:原題は「大空のように」 鬼と福が単純に存在すれば、という願いも文意に沿うので改題。
  2:文中の「言語ゲーム」はヴィトゲンシュタインの意に沿っても、単純にしりとりのような言葉遊びにとっても、日本語の構成自体ととってもそれぞれが意味があると思われるので限定せず。

執筆者:藤崎 道雪

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