食欲と性欲と睡眠欲、そして名誉欲。
個体と社会内の存在として必要な欲求であることは認める。
指折りながら検討してみる。食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲、際限なく湧いてくる。湧いてくる事を否定はしない。ただ、湧いてくるように自発的に煽動したり、湧きそうな場所や物事に近づこうとはしないだけだ。捕られないようにしようとか、捕らわれないようにする意識に捕らわれないようにしようとも思わない。
ただ、面倒くさいだけだ。さめているだけだ。捕らわれた自分を奥底で褪(さ)めたように感じるだけだ。否定もしない。肯定もしない。そういう概念枠から外れてしまったのだ。
時々、輝くものに取り付かれ永続したくなる。どんなに安全に気を使っても、食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲が決まって邪魔をしてくれる。彼らに対する自分の意識が出てきて、それが可笑しくなったりする。「ああ、まだ残っていたのか」と。苛(いら)つく自分が残っていたのかと、クスリ、とイザベルアジャーニのように微笑む。
浅瀬で幼児やカップルのようにバシャバシャとはしゃぎ回る自分を、大陸棚の方から見上げて微笑んでしまう。微笑が終わると振り返る。続けて一歩一歩、スローモーションのように舞い上がる白砂を巻き上げながら摺足(すりあし)で進んでいく。
太陽光も所有権も家族愛も格闘魂も社会性もドグマも、闇が深くなるに遵(したが)って風化するように粉々になる、その深海の方向へ向かう。
肩甲骨に受ける日の光が仄(ほの)かだからこそ暖かい。巻きあがる砂が時間の感覚を狂わせる。何もかもを押しつぶす水圧の生み出す浮力が押し戻そうとする。意識的に遮断(しゃだん)した肉体と脳の回路を内臓が悲鳴をあげながら接続しようとする。
さっきよりはもう少し口の両端を上げながら微笑む。
彼らを否定しようとは思わない。肯定しようとは思わない。捕らわれないようにしようとか、捕らわれないようにしようという意識に捕らわれないようにしようとも思わない。
彼らは其処にあるからだ。
その内に進もうとは思わなくなる。止まろうとも思わなくなる。意識しようとか、意識しようという囚われを意識しようとはしなくなる。
それらは其処にあるからだ。
ただ、観えている。
ただ、深海の闇が、何処までも潜っていけるような暗闇が観えていている方向へ進むだけだ。
注記:原題は「深海を微笑む」 「豆まき」と対比的な言葉を使ったので連続で掲載。
:題名「爛狂(らんきょう)」は未掲載の作品での造語。字義の通り。
:文中「イザベルアジャーニのように微笑む」は、ものかき部2004年03月16日(火)掲載「 イザベル・アジャーニ 」を参照下さい。
執筆者:藤崎 道雪