僕は禿げる。(中略)それでも歌を聴いてくれますか?
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| 2003年01月24日(金) |
勘違い(肥後もっこす) |
最近の世の流れとは全然関係ないんですが、ニューヨークのテロを伝えるニュースの映像を見ていて、テロと関係ない所で不謹慎ながら驚いた事があります。瓦礫と化した貿易センタービルを映し出すカメラ。次に恐怖を訴えるニューヨーク市民を映し出す。ケミカルウォッシュと思しきジーパンに、やけに派手なTシャツの裾をケミカルズボンにキチキチに入れた若者が何人も…。嘘っ!ニューヨーカーはある程度スタイリッシュなんじゃないの?うちの親父でさえこんな格好しないし、最近日本でも府中市で一二度しか見たこと無い!これを見た時、僕のアメリカに対するほつれた部分はすっきり解けてしまいました。
こういったあまりにも切ない景色や状況を作る人が多々います。自分もその一員になってないか冷や冷やして、たまに人に聞いたりします。「俺って勘違いしてないよね?」
やけに赤茶けて親父狩りでもしそうな色の髪で、近くのスーパーで買ったであろう黒人まがいの服を着た、あまり若くない夫婦(子供はジャンボ尾崎カットだったりする)。トイレの香水のように強烈な香水で自分の周囲に空気の層を作り、それをたなびかせながら移動する、うら若くない女性。吉野家で見かけた古びた鋲つきの皮ジャンに皮パンを着た、メタルなストレート長髪お兄さん。(これにデニムのパンツの下にストッキングを履き、パンプスを履く人を加えようとしましたが、各方面の圧力で却下されました)
「『外見で人を判断するのは良くない』とよく言うが、それは嘘だ」と大変信頼する友人が言ったことがあります。言われてしばらく実感はなかったのですが、時が経つにつれそれは真実なのではないかと思うようになりました。服の高い安いとか、メーカーの有名、無名などのその物の持つ意味ではない価値観で着ているものはある種情報を出しているという意味なのではないかと考えるようになったのです。その人がどう見られるか、どう見られたいかを表しているはずなのだと考える様になりました。
前出のいくつかの例に共通する要素の一つに「外界からの情報のインプットが壊れてしまっている」という点がある様に思います。インプットはあってもそれを吸収する力が弱ってるのかもしれません。外界からの情報に対して毎回細かにリアクションをとっている状態であれば、気づかずに浮世離れしたセンスを持つ事はないだろうと思うのです。どちらにしろ「どう見られたいのか」という意思+「相対的に自分を見られるか」という力の加減が人の外見を作るのに重要な働きをしていることは間違いないと考えるのです。
深読みしすぎて迷宮にはまる癖はまだ続き、昔何故か早く目が覚めた朝に観た「テレビ寺子屋」に出てきたやけに流暢な日本語を喋るコミニュケーションの研究をしているという西洋人の言っていた事を思い出しました。それは「コミニュケーションというのは自分が意図して出す情報に限らず無意識に出した情報まで含むものである。」というような感じの内容だったと思います。たとえばベンチに誰かがしばらく座ってたとします。その人が立って去っていき、その後に別な誰かが座って残った温かさを感じたとします。それは彼の言い方ではコミニュケーションなのだそうです(例は��(高山)が勝手に考えました)。この考えに僕は大変感動しました。この考え方は実に人間同士の関係を大切にする「面倒くさい」考えで、田舎の人付き合いを理解するのにも大変有力な物だと思ったのです。結局今この文を読み返してみると、結局友人とテレビ寺子屋の西洋人の言っている事が入り混じって今回の内容になっているような気がしてきました。萎える気持ちを奮い立たせて、果たしてきちんと結論まで辿り着けるんでしょうか。不安ですし、途中まで打って消えたら嫌だと思って日記ページの登録ボタンを押したので、内容が途中までのこのページへアクセスしてしまう人がいるかも知れません。心配です。でも負けずに続けます。 (続く)
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