Dance日記帳
モクジキノウヨクジツ


2006年03月29日(水) 格物致知

センス、感覚と云うものに於いて、此れだけは教えようもなく、諮る手段もなく、途方にくれる。

果たして私の持つものが正しいかというと、其れさえもわからない。

唯、思うことは、何事に於いても、此の、センスと呼ばれるものが持つ意味合いは深いということだ。
例えばスポーツ。例えば食生活、料理などの味付け。例えば好きな色と似合う色を分け隔てすること。言葉の選び方。身のこなし方。
思い付くこと全てが、ほとんどセンスによって左右される。

しかし、センスが「性格」に直結するかというと違う。
どれほどセンスが善くても「性格」が悪い人もいるし、センスが全くないのに「性格」がステキな人もいる。

また、センスと理屈は相反するものなのだろう。たぶん。
理屈は教えることや議論することができるが、センスは難しい。
理屈にこだわる人ほど、センスというものを忘れきっていたりする。

其の昔、先生に云われた言葉が今も心に残る。
「センスはね、親の義務。3つまでに教わった両親のセンスがその子の基準になるから、センスが悪いのはその人の罪ではなく親の罪。そして、怖いことに一生変わらぬものなんだ。」

確かに家庭内のことは、子供にとって最初に覚える社会ルールであり、マナーであり、センスなのだ。
卵焼きにソルト&ペパーなのか、醤油か、ソースか。
家庭のなかで最初に教わること、知ることが、一生ついてまわるのだろう。

しかし、センスと一括りで言うが、ダンスに於いてのものは、これまた別なのだとは思う。
いろんなスタイルのものを踊ったり、たくさんの舞台を観てゆくうちに磨かれる部分も多いはずだ。思わぬ意識の変化があるからこそダンスを学ぶことは楽しい。

問題は「人間」として生きるセンス。

否、一方的に誰かを否定しているわけではない。
私だって「人間としてのセンス」に自信があるわけではないのだから。
唯、余りにも自分のもつ其れとは、遠くかけ離れたり、真逆な人と居ることが苦しいのだ。
何処かでシンパシーを感じ乍らも、というものならば苦しくはないのだろうが。若しくは、其所に何らかの好意が存在すれば別なのだろう。
センスや意識の似た人とは、自然と互いに近付くことができるものだったりする。そこから好意が発することも多々在る。

回り諄く在れ此れ書きなぐって居るが、いったいなにを言いたいか。

日々、小さいことであっても学ぶ気持ちや吸収する心の柔らかさを持ち続けているならば、自分を変化させる原動力になるだろう。
ものを見極め、自らの力で探し、得た知識があれば、それはセンスに大きく関わってくるのだろ思うのだ。
他人に頼っていては何も見つからない。
センスが何か、もうひとつ深く想いを廻らし、自ら何かを学んでから当るが良し。

かく言う私も、探究心、学ぶ心は忘れずに、少しずつでも成長を続けたい。


MONIE |MAILHomePage

My追加