また帰って来たロンドン日記
(めいぐわんしー台湾日記)

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2004年01月17日(土) ロンドンのいいところ

今年の抱負のひとつはロンドンのいいところを見つけることだ。で、ずっと考えているのだけど、今日地下鉄の車内で乗客達を見回して、ふと思ったこと。それはロンドンというところがなんとも「雑多である」ということだ。その雑多さは人種や民族という単純な枠にはおさまらず、「社会階級」や「文化階層」など、そして最終的にはその人やその家族のもつ習慣に応じてさまざまな多様性を見せる。

断っておくが、実はこのような「多様性」がロンドンのいいところだといいたいわけではない。俺個人としては、どちらかというと、正直、居心地が悪い。しかし、今日思ったのは、これだけの人々がみんな我がちに行動している巨大な国際都市ロンドンでは、常に自分がためされるということだ。日本に帰っていたとき、「社会に流される」という言葉を良く耳にした。もちろん多くの人が否定的な意味あいで使っている。しかし、逆に言うならば日本は社会に流されてしまうことが出来る環境ということだ。

秩序や安定という意味では、日本的な環境とこのカオス的なロンドンとを比べるベくもない。ロンドンでは非常に高いエントロピーを感じる。ではロンドンで流されるとはどういうことなのか、俺個人にとって言うならば、それは「堕落していく」ということだ。日本であれロンドンであれ、社会に流され埋没していくというプロセスには、もちろんある程度の類似点があるに違いないが、俺にとっては日本社会の中で自己主張することには慣れていても、皆が特別意味もなく、当たり前に自己主張している環境の中で、自己を埋没させないようにさせることはけっこうややこしい。自分は何者なのかという問いが常に突きつけられるような感覚がある。だからはっきりとした自分の行動原理が必要になってくる。はっきりとした行動原理とはどういうことか、現実的には「無前提な自己肯定」である(笑。

言うのは簡単だが、これは意外と難しい。ロンドンは無前提に自己肯定できない人であふれている。地下鉄の乗ると一目瞭然だ。天気が悪い日が何日も続くと、この人たちが自分と無関係ではないという気がしてくる。そういうときに、まわりの迷惑を気にせず、エスカレーターの前でたむろして通路を塞ぎ、大声でおしゃべりしているラテン系の観光客が目に入ると、もっと人生楽しく生きるべきか複雑な気持ちになったりもする。そして「ロンドンだなぁー」と思うのだ。

かのスペイン語圏から来た旅行者たちのように無前提に自己を肯定するかどうかはさておき、海外生活5年目、ロンドン生活3年をすぎ、世界の中にある自分という存在の意味を、じわじわと受け入れざるを得なくなってきている。そういうことを考えたり、乗り越えていくにはロンドンというところは素晴らしいところかもしれない。このロンドンで手に入れることになる大きな財産を、将来、きっと懐かしく思い出す日が来るのだろう。


倉田三平 |MAILHomePage

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