また帰って来たロンドン日記
(めいぐわんしー台湾日記)

DiaryINDEXpastwill


2004年02月08日(日) ことばの問題

 どこかで向いていないと思いつつも、俺が外国語を勉強しているのはもしかしたら「ことばから自由になる」ためかもしれない。英語・エスペラント語・フランス語・北京語・広東語・台湾語。かじっただけの言語なら数はもっともっと増える。こんな言語ジプシーのようなことをやっていても到底まともな職には結びつかない。

 ひっくり返すと、まともな職につなげようという気がそんなにないのかもしれない。食っていくためなら最終的にはなんとでもなると思っている。それは同級生たちが大学生をやっているときからやっていたさまざまな仕事の経験や、職業としてのストリート・ミュージシャンという経験による。
 
 はっきり言う。人のことはどうでもいい。基本的に人がどんな仕事をしようが知ったことではない。その人が幸せであればいいなと願うだけだ。仕事などというものは、その人の全てを表すものではない。そしてその人にはその人の事情というものがある。人によってはひとつの仕事に情熱をかけることができ、そしてその職業がその人の人格すら現してしまうほどのものになることもあろう。しかし、そんな人間は一握りだということは実は多くの人が知っている。自分が満足できない仕事をすれば、誰しもが満足できる仕事、自分をより表現できる仕事をしたいと思うのは当然だ。ただそれは本人自身の問題でしかない。


 ひとつのことばをここに置いてみよう。誰もが知っていることばをひとつ取って置いてみよう。そのことばは誰しもが知っているはずのもので、「それ」は「それ」であるべきものだとみんな思っている、、、と俺は思っている。

 俺がそう思うために必要な条件とはなんだろう。そしてその考えが「通用する」ための条件とはなんだろう。「通用」しないのだと思うために必要な条件はなんだろう。


 ひとつの観念があり、その観念を受け入れるグループがある。そのグループが堅牢であれ脆弱であれ、大きかろうとも小さかろうとも、それがその観念を支えるに十分であればこそ、そこに存在の危うからざることが保証される。ではそれはなんだ。


 このがんじがらめなことばの世界から抜け出そう。自分が思い描くものをつくっていけばいいだけじゃないか。そしてどんどん簡単にしていこう。ことばに縛られず、ことばをばらばらにしていこう。そして、こいつらをばらばらにしたときに一体何が残っているかの方が重要なんじゃないのか? その日に、何もなかったと気付いて途方に暮れるよりも、いまからその先を見ていくことが出来るはずだ。


 俺は勝手にやらせてもらう。だから俺のことも構わないでほしい。甘えるならもっと上手にやるもんだ。俺が君たちより楽な人生を歩んできているわけではない。いいとこ取りをしようとするのはやめてくれ。君たちが自分で決めたなら、それを胸を張って成し遂げてくれ。おれはそうしよう。胸を張って進もう。自分で選んだ道を。


倉田三平 |MAILHomePage

My追加