また帰って来たロンドン日記
(めいぐわんしー台湾日記)

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2004年02月10日(火) 「判断」しないということ

 先日、日曜日の日記に書いたことに対して、何人かの人から心配のメールをいただいてしまった。非常にうれしかった。この場でもお礼を言っておきたい。

 みんなは、俺が何か不愉快な出来事に遭遇したと思ったらしいが、実は最近は非常に調子も良く、とくに不愉快な事件に巻き込まれてはいない。ただ、突然思い出してしまったのだ(笑。ま、思い出せる余裕があるというか、思い出してひととおりむかつくとすっきりしてしまうわけで、自分ではむかしに比べて「健康だなー」と思うけど、そんなことで多くの人に心配をかけるのは申し訳ないなとも思うし、同時にすごくうれしくもあった。

 
 ここ2年、とくにNLP(神経言語プログラム)を勉強し始めてから学んだことで、今とくにその重要性を感じているのは「人を判断しない」というスキルだ。この「人を判断しない」というのは、自分の考えや感覚で相手の人のことがどんな人であるかを勝手に判断しないということ。俺は生まれてから30年間、そういう感覚を持ったことがなかった。だから社会との自分との関係はつまり「判断し、判断される」関係でしかなかったし、だからこそ「どう判断されるか」によって行動が決まり、いかに正当な根拠をもって人を「判断する」かが重要だった。(だから儒者が嫌いなのかも、、、=余談(爆)

 その「判断し判断される関係」の影が自分の中で薄くなりつつある。ではこの新しい感覚というのは何かというと、つまり自分はいろんな場所において、理由なくその場にいることが出来るということだ。それはどういうことかというと、自分が何者で、どういう理由があってその場にいるのかという説明を相手から要求されず、しかもこちらも敢えていわなくていいということだ。こういう感覚を持って育ってきた人にはなんとも当たり前すぎてわからない話かもしれないが、そうでない人間にとっては人生観が180度変わってしまうほどの大きな驚きでもある。

 
 自分が判断することを出来るだけしなくなったからといって、周囲の人々がそうしなくなるということにはならない。他人はコントロール出来ないのだから仕方がない。そこでなんとか身を護る手段を考えなくては行けませんねと(笑。つまり今の俺はそういう段階ですよということ(笑。どうも今思えば「お寺さんノリ」で、延々と下手にいい人を演じ過ぎ、気がついたときにはピエロになっているというのが物心ついたときからのパターンだった。まわりにはどういう風に写っていたかはわからないが、少なくとも自分的にはそうだったし、同時に忸怩たる思いにも悩まされ続けてきた。

 
 今は、自分は自分のことしか出来ないという感覚が強い。「他人はどうでもいい」などという言い方をしてしまうので、また誤解されてしまうのだが、どうもこういう言い方というのが俺は好きらしい。他人がどうでもいいわけがない。が、敢えてこういう風にいってしまうのは「一人レトリック」だろうか? 前提を簡単に共有する技量が足りなすぎで、反省しなくてはいけない。
 
  


倉田三平 |MAILHomePage

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