カンラン
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用もないのに記憶がやたら騒がしいことがある。
普段は取り出そうと思っても取り出せないぐらいに埋もれてしまっているようなことが、芋づる式にぼこぼこと出てくるのだ。ぼこぼこと出てきた芋(記憶)がそこここに転がっているため、何をするにも足をとられてしまい、大迷惑。
ここ数日が、そんな日々。脱したい。
ぴのきの成長がものすごい。
相変わらず一日中外国語(つちのこ氏には韓国語のように聞こえるらしいが、私には北欧のことばのように聞こえる)のようなものをしゃべり続けているが、日本語のボキャブラリーを確実に増やしている。 そんなに覚えたのかとこちらは驚きを隠せないのだが、まったくのゼロからのスタートというのはこんなものなのかも知れない。 ついつい自分が英語を覚え始めた頃とだぶるのだけれど、(まわりの人間に通じないとは言え)私にはすでに日本語という母国語があったのだ。 それすらもない状態というのは、どれだけもどかしいものだろうか。
ぴのきが今日身につけたことばは、「いっしょ」。 「一緒に」ではなく、「同じ」という意味合いで使っている。
そんなぴのきは1歳9ヶ月になった。
ミクシィなどで同じく子を持つ友人知人の日記を読むと、「かわいい」「すっかり親ばか」「笑顔を見れば疲れも吹っ飛ぶ」などのことばがあまりにも多くて、どちらかと言うと余裕のない私は、人知れず不安になったりしていた。
子どもがいることによって生じる不便だとか時間のロスだとか、そんなものに苛立つことも多いし、解放されることのないのが試練のように感じられた。
それが最近少し変わりつつある。 「かわいいなあ」と思うことが増えたのだ。
もちろん今までもかわいさを感じたことはあったのだが(なければおそらくここまで来れてない)、それらはあまりにも一瞬で、次々とうまれる感情の波に飲み込まれていた。
母に、 「よそのお母さんを見ていて、そのやさしげな様子にショックを受けた」 と打ち明けたら、 「ほかの人はほかの人。自分にしかできない子育てをすればいい」という意味の話をしてくれた。
今更だけど、私はこの人に育ててもらったのだなあ。
結構はちゃめちゃで、どこまでいっても末っ子気質が抜けなくて、根は真面目な母は、幼稚園教諭の免許をとりながらも「どの子どもも皆おんなじように可愛がるなんて私にはできない」と結局その職につくことはなかった。
私とぴのき。 今は以前よりも増した一体感を少し楽しめているかな。(新生児のときの方がむしろ一体となってそうだけど、どういうわけか今そんな感じ)
いつもは日に100回ぐらい「まま」と私を呼ぶぴのきが、にやりと笑いながらつちのこ氏のまねをして「BROOCH(もちろん本当の名前で)さん」と呼べば、それがどこであろうとぎゅうぎゅうに抱きしめて4の字固めのひとつやふたつかけたくなるのさ。(ただし、かけ方を知らない。残念無念)
ほんの少し、恋に似ている。
でもきっと、明日になれば、また格闘。
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