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みんみん



 水の遊び、その他

前夜、久しぶりの、しかもすごい雨。
少し涼しくなって、この月の終わりを感じてみたりもする。

ストロー付きのマグカップというのを(たぶん、他の多くのお子さん同様)持っているのだけれど、あまり使わない。ストローを噛むならまだいいのだけれど、フタの部分を噛んでしまって、ストローから飲み物が飛び散るということがままあるからだ。出かける時には重宝するはずなのだけれど、出かける時ですら、大人も飲むコップや何かから直接与えてしまうことが多い。

Kに桃のジュース(絞って薄めたもの)を飲ませていたら、ぶくぶく、あわあわ、と口で水の泡を作って遊びだした。発語というか発音の点でも、ぶうううぅ、ブルブル言わせるのが楽しくてならないこの頃なのだけれど、コップの水でも似たようなはたらきができることに気づいたらしい。
そしたら面白くなって、まあさすがに飲みたい時には飲むが、あきたら(「あく」、ここは現代語プラス古語っぽいニュアンスで)、ぶくぶくやっている。
お風呂の水をパチャパチャ叩くのといい、水は身近で不思議な遊びを作り出すんだな。



若者たちと業務連絡。
するのがけっこう楽しい。実は好きだからこそ、業務中はあんまり深入りしないようにつとめている。
業務が無事遂行できたら、稀に発展することもあるような気もする。

出会い方というのはいろいろで、ときどき面倒くさい。



最近の私のいちばんの関心(Kについての)は、コトバを発しつつあること、あるいはそのことを通しての、さまざまな認識・認知という問題である。
自他を認識し、自分をとりまく世界をどのように認識し、さらに言語という(新たな)形でうつしとろうとする。音声と概念の両面で。
うつしとることは可能なのか、不可能なのか。
Kは少しずつ、うつしとる(ことのできる)力に気づきつつある。あるいはその力を獲得しつつある。その入口に立っている。
コトバをとりまく問題は私(たち)の問題でもあり、ゴールはないのだけれど、自分がどのような地点からスタートしたかは知らない。その始まりをいま目の前で実際に見せてくれる人がいるのが面白い。

とかなんとかKについて考える中で、私という人間の志向を改めて知らされたりもして、面白い。結局自分、な私に安心もする。これだけ心を奪われているのに。
愛情というものが私の心を全部無化できるわけではないということだな。

ちょっと抽象的に書きたくなったのでそんな書き方で。

りー氏はりー氏で、私の気づかない、見えていない、見えないところを見たり、気づいたり、見つめたり、眺めたりしている。

2007年08月23日(木)
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