前に比べたら少しだけ朝早く起きるようになったけど、相変わらず何もせず、ボーっと過ごす毎日。ってことは、今日起きて、ご飯を食べて、ボーっとしてたら夕方になったのでまたご飯を食べた。ってことだけで今日の日記が終わっちゃう。そんなことをすると、ムースの思ったことを思ったままに書くという方針に反するので、今日思ったことをいつものようにつらつらと書き綴っていきます。 朝から何を思ったのかわからないけど、昨日同様ニューヨーク・タイムスなどという横文字で書かれた新聞のサイトへいったの。そこのニュースの中に日本のことが書いてあるのを発見したから、辞書をひきひき読んでみたの。その記事は「ここ」からどうぞ。内容は日本人の鬱に関することについて。簡単にいうと日本人は鬱に対して抵抗感があるって感じかな?うぅ〜、うまくいえないから辞書を引き引き読んでください。ムースはこの記事を読んで、なぜこんなに鬱っていうか心の風邪に抵抗感があるんだろうって思ったの。この記事の中にスチュワーデスさんの例が載ってたんだけど、会社に鬱だってことがばれると首になるからカルテには鬱って書かないでっていったんだって。だからホルモンのバランスががちょっと不安定だってことをカルテに書いたんだって。うわっ、すごい和訳だ。このスチュワーデスさんの話を読むと、患者さん自身も心が風邪をひいちゃってることには抵抗感を持ってるって感じがするよね。ってこういう風に書いてるムース自身もちょっと抵抗感があって、今年の2月、3月はかなりひどい状態だったのにカウンセリングに行かなかったけど。っていうか、もうちょっとひどくなってたら行ってたと思うけど、断酒してたせいか変に感情を乱すことがなかったから、カウンセリングへ行かずに回復したんだけどね。立ち直ったときって今まで立ち込めてた霧が晴れるかのようにスーッと変な感情が消えていってくれたんだよね。とはいっても、五里霧中だったのに、いきなり晴天白日のごとくすべてが吹っ切れたって訳じゃないけど。自分でどうにか出来るんだったらいいけど、心の風邪の場合は普通の風邪のように薬を飲んでひと晩寝たら治っちゃったってことにはならないからね。なのに何でこうもいえないのかなって考えちゃった。 記事の中にお医者さんの話として日本人がなぜ鬱を隠そうとするかってことが載ってたの。それは恥だと思うからなんだって。それによく似てるのが戦争のときに何万という日本兵士が絶望的な状況の中では包囲されるより死を選んだって。なぜかっていうと恥になるって思ってたから。これもすごい和訳だなぁ。さすが偏差値30台。昨日たまたま戦争のことについて調べてたからこの説明がムースには妙に説得力のあるものに思えたんだ。今の人はあまり持ち合わせることのない恥っていう意識を昔の人はたくさん持ってたよね。変なことをやると「恥ずかしいからやめなさい」って怒られたり、今でもいう人がいるけど「人前に出ても恥ずかしくない人になりなさい」ってことをいったり。恥ってことに対してはとっても敏感だよね。じゃぁ、どこからこの恥って意識がやってきたんだろうって思ったの。そのときにふっと頭の中を過ぎったのが「武士は食わねど高楊枝」って言葉。ここに何かが隠されてるんじゃないかなって。 そう思って武士道で検索開始。そうしたら何と今の5千円札の肖像になってる新渡戸稲造が武士道っていう本を書いているじゃない。初めて知っちゃった。新渡戸稲造って何した人なんだろうってずーっと思ってたけど、こんな本を書いていたのね。で、武士道とは何たるやって思ってちょっと読んでたの。ゆっくりと武士道を読んでみたい方は「ここ」をクリックしてください。これを読んでる限りだと昔の道徳教育としてはいいんじゃないのかなって思ったんだ。もちろん、今の世の中には不適なところも多々あるけど、でも今の世の中でもこれは重んじた方がいいんじゃないのって思えるのもあったなぁ。例えば、礼の心って大切じゃないかって思うの。このHPの言葉を借りれば、「礼とは他人に対する思いやりを表現すること。長い苦難に耐え、親切でむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない」。こういった心は洋の東西にかかわらず必要じゃないかな。仁だって説明を読んで、聖書の一節、コリント人への手紙の「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない」って件に似ていると思っちゃうのはムースだけかな?何か昔からみんな似たような道徳観を持っていたんじゃないかって思ったの。もちろん1つ1つを比べたら違いなんていくらでも出てくるけど、大まかにみると人として生きていくにはこうあった方がいいっていうのは似てるような気がしちゃって。ただ、いつの時代にも言葉を自分の都合のいいように解釈しちゃう人がいるから、忠誠を尽くすってことは何でもいうなりになるんだとか、ちょっとでも目上の者に逆らったら死をもって詫びるだとか。でも武士道の考えからすると、生きることが死ぬことよりいっそう困難な場合は、あえて生きることが真の勇気であるっていってるんだから腹を切ればいいって訳ではないんだよね。解釈が人によって違うのは当たり前なんだけど、ただ自分の都合よく解釈をして、それを押し通すのは違うんじゃないのかなって思ったんだ。 今でいえば、個性とか個人主義、自分らしさってことをみんないいように解釈して使うよね。これは唯川恵のエッセイにも書いてあったんだけど、待ち合わせても、いつも時間に遅れてくる女性に遅刻をしないでっていったら、時間にとらわれないで行動するのが私らしさ、これが私の個性だからといったとか。ムースにいわせればそんなのは個性じゃなく、ただの我がまま。身勝手だよね。個人主義っていうとさも集団に属してはいけないことのように1人気ままにやってるけど、これも何か履き違えてる人もいるんじゃないかな。個人で勝手気ままにやって、うまくいってるときはいいけど、ちょっとでもうまくいかなくなると人のせいにしたり、責任を放り投げてどこかへ消えちゃったり。自分でやってることの責任感がないんだもんね。ムースの友達がよくいってたんだけど、「自分で自分のお尻が拭けないんだったら、そんなことやるな」と。本当にその通りだよね。個人主義でも何でもいいけど、自分がやることに責任を持てないんだったらやるべきではないんだよね。ってそれが故にムースはピーターパン症候群になって一生懸命責任を回避しようとしてるんですけど。説得力がなくなっちゃうけど、事実なもので。情けない。個性や個人主義もいいけど、本来の意味をちゃんと理解してから行動を起こさないと、とんでもないことになっちゃうからね。昔って武士道の精神だと何とかいって、戦争へいったら生きて帰ることを恥のように教育したけど、本当は違うんだよね。都合のいいように解釈してたんだよね。そのために多くの人の命が奪われちゃったんだよね。個性だってあまりにも都合よく解釈しちゃえば、人の命を奪いかねないことにならないから、1人1人が責任を持って、本来の意味での個性を大切に行動してくれたらいいなぁって思ったんだ。
この武士道からどこをどう辿っていったんだかわからないんだけど、最後に行き着いたところはムースにとってもっとも危険なサイトだったの。ここにたどり着いたら1日何もしないまま時間が過ぎちゃう。どうにかしなきゃって思うんだけど、自分のやってることになかなか歯止めがかけられなくて。何のサイトかというと、歌詞の載っているサイト。本当にこれは危険。今日は小学校のときに歌った歌をずーっと歌ってた。アイアイとか巣立ちとか翼をくださいとか。その中で何でこんな歌知ってるのっていうのまで歌ってたの。それは…二宮金次郎。実は父がよく歌ってたので覚えちゃったの。♪柴刈り縄ない草鞋をつくり 親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し…って。ちなみに母の出た小学校にはムースが子供の頃は二宮金次郎の像があったんですよ。今はもうないと思いますけど。ところでこの歌って習ったのかな?♪はいしいはいしい、あゆめよ小馬 山でも坂でも、ずんずん歩め…って歌なんだけど。もし習ってないとしたら、この歌も父がいつも歌ってたから覚えたんだ。ムースって戦前の人じゃないですからね。その証拠に文部省唱歌である広瀬中佐は知らなかったから。あぁー、知らなくてよかった。ホッ。でもなぜか戦後すぐに歌われような歌をよく知ってるの。自分でも気持ち悪くなるくらい。今日だって文部省唱歌の1人カラオケ大会が終わって、次に歌ったのは「東京の花売り娘」ですよ。♪青い芽をふく 柳の辻に 花を召しませ 召しませ花を…って。りんごの唄とか銀座のカンカン娘は歌わなかったけど。本当に歌詞のサイトは危険!っていいながら独唱会も悪くないかなぁ〜なんて思ったりして。そして今夜も1人カラオケ? |