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Mi Pensamiento Diario

日本語を大切にする

うぅ〜、飲みすぎた。今日はお昼になってから起きたんだけど、1日中調子が悪かった。昨日の晩、眠れないなって思って飲んだスミルノフ君が、今日になってもその威力を発揮しているなんて。あまりの具合に悪さにご飯を食べてからまた寝ちゃった。ここはスペインじゃないんだからシエスタなんて必要ないのに。一眠りしたら、もう夕方だった。今日も1日何もせずに終了。そして気がついてみれば夏休みが始まってから2週間が過ぎているし。怠惰な生活を送っている自分にがっかり。こういうときは旅に出て気分をすっきりさせたいなぁなんて思っちゃう。来週あたり、どこかへ出かけようかな?
今日夕方になってからちょっと知りたいことがあってヤフーで検索をしてたの。そのときに面白いHPを発見。1人で納得してた。今、ムースは北の国に住んでいるけど、もとは東京の人。だから東京の感覚でものごとを考えちゃう。ムースにとってコンビニでたらこのおにぎりと明太子のおにぎりが売っていても不思議って思うことがないの。というかたらこと明太子は別物って思ってる。たらこは普通のたらこのことを指して、明太子は辛くしたたらこを指しているって思ってたから。でも、「ここ」に書いてあることを見たら、たらこと明太子の別々に売っているのが変って思う人がいるってことがわかっちゃった。っていうかムースが変な人なんだよね。たらこと明太子が別物っていうのは、いくらのおにぎりとしゃけの子っておにぎりが別物として売っているようなものだもんね。北海道風にいうと鳥のから揚げとざんぎが別物として売っているようなものかな。言葉って生き物だからどんどん変化をしていくけど、その語源を聞くと何だかおかしくなっちゃうことが多いよね。例えばカンガルーっていうのも、アボリジニーの言葉では知らないって意味なんでしょ。今ではあまり使われなくなった言葉だけど、アメリカの原住民のことをインデアンっていうのだって、コロン(クリストファー・コロンブス)がインドに漂着したと思ったのが始まりだよね。だからアメリカの原住民をインド人だと思ってインデアンって呼んだんだし。昔、会社にいたフィリピン人の同僚と話をしてたとき、ナイフやフォーク、スプーンってタガログ語ではクチージョ、テネドール、クチャーラっていうことを聞いてちょっと驚いたし。何でかっていうと、これスペイン語だから。そういえば、カステラも語源はスペインのカスティーリャ地方から来てるって話だよね。カスティーリャが変化してカステラになったとか。余談だけど、バルセロナの人と話をしてるとスペイン語のことをカスティーリャの言葉っていう人がいるの。なぜなら、バルセロナのあたりはカタルーニャ地方って呼ばれていて、カタルーニャ語っていう言語があるから。スペインで使われてる言語にはカスティーリャ語やカタルーニャ語、バスク語っていうのがあるんだけど、一般的にはスペイン語っていうとカスティーリャ地方の言葉、カスティーリャ語を指していってるの。中南米の人も自分達の話す言語のことをスペイン語といわずにカスティーリャ語っていうかな。ムースはスペイン語が…っていうけど、返ってくる言葉はカスティーリャ語はね…って感じだった気がする。
語源を探るって何だか自分達の祖先を探すようでちょっと面白いよね。いつの頃からこういう風にいわれるようになったんだろうとか、何でこういう風にいうんだろうとか。知ったところで何になるのっていう人もいるだろうけど、ムースはこういうのが好きだな。言葉の使い方が上手になるような気がしちゃって。
語源を探って遊んでいたときにあるHPにたどり着いたの。ここ最近、この日記の中で日本語が大切とかって書いてきたけど、実は自分で何がいいたいのかよくわかってなかったの。もし、日本語を大切にすることってどんなことって聞かれていたら、文法的に正しい日本語を使うとか、昔からあった美しいとされる言葉をたくさん使うとか、訳のわからないことをいったと思う。その反面、言葉は生き物だから変化するのは当たり前っていうような相反することを書いてたりして。矛盾したことばかり書いちゃって、本当に情けない。でも今日このHPを見て、日本語を大切にするっていうのがどんなことだかわかった気がする。このHPでは日本語を大切にするっていうのは「周りの人を大切にすることだ」っていってるの。どういうことかというと、「相手がどんな人間かを考えてそれに合わせ、ていねいに意思を通じさせようとすれば、言葉は自然にきれいになっていくもの」だからだと。こういう考え方ってムースはいいと思う。素晴らしいと思う。言葉を大切にするっていうとついつい文法だとか語彙だとか言葉そのもののことを考えがちだけど、言葉そのものより、どういう気持ちでその言葉を使うかってことを大切にしなきゃいけない。そう考えたらいいって思ったの。詳細は「ここ」をクリックして読んでください。
このHPに書いてあることをいろいろ読んでいて1つ思ったことがあるの。それはムースが今まで正しい日本語とか、正しい英語の発音とか、正しい何とかって書いてきたんだけど、その正しいって表現は正しくないだろうなぁって思ったんだ。どういうことかというと、今の日本語って東京の山の手地方の言葉を日本の標準語にしましょうってことにして、明治時代からずーっと東京の言葉が正しい日本語って教わってきたよね。でも、東北の言葉も関西の言葉も四国や九州の言葉もみんな日本語だし、間違った言葉ではないんだよね。今問題になっている「ら」抜き言葉だって、もしかしたら50年後の日本では全員「ら」抜き言葉を使ってるかもしれない。そのときに日本人全員間違った日本語を使ってるっていうかな?多分、それが正しい日本語だっていってるかもしれない。そう考えると正しい、正しくないっていうより、好ましい日本語、好ましくない日本語と表現を曖昧にしたほうがいいのかなって思っちゃった。英語の発音だと、正しい、正しくないっていうんじゃなくって、誰が聞いてもわかる発音、わからない発音っていう表現がいいのかなって思ったんだ。例えばアメリカ英語を習っている人はアメリカ人が聞いてわかる発音。イギリス英語を勉強してる人はイギリス人が聞いてわかる発音。そういうのを習うのがいいのかなって。留学をしてる人はどうしても習っている地方の訛りがある英語になっちゃうけど、もし訛っていてもその地方では誰もが理解できる英語の発音が出来るようになればいいんじゃないかなって思うんだ。ご存知のように英語には標準語ってないけれども、こういう発音をしたらみんなが理解できる発音っていうのはある。イギリスにいたときに聞いたことがあるんだけど、イギリスの場合はイギリス南部の英語は誰が聞いてもわかるって。BBC放送の英語は南部で話されている英語に近いって聞いたことあるし。アメリカだと中西部の英語がきれいって聞いたかな?そういうのを習うのがいいかなって。それに英語を話すときは子音と同じく母音の発音も大切だと思うの。どんなに子音の発音を矯正しても母音をちゃんと発音できなければ通じないこともあるから。英会話学校とかだとLとRやSとTHの発音をよく直すけど、実はそれと同じくらい大切なのは母音なんだよね。って今思い出したんだけど、イギリスの英会話学校で二重母音を直されてことがあったんだ。あのときはどうしてムースだけ直されなきゃいけないのとムッとしたけど。でも今思えばかなりひどかったんじゃないかなと。日本人が日本人訛りの英語を話すとイギリスではよく通じるもんね。そのことを知らなかったからかな。今では日本の英語はアメリカ英語が主流になっちゃってるから、トマトはトメイトーだし、ビタミンはバイタミンだけど、イギリスでトマトをトメイトーなんて発音したらビックリされちゃうもんね。ってムースの発音を聞いてホームスティ先のママがかなりビックリしてただけなんだけど。何か話が変な方へいっちゃった。
頭がポワンポワンになってきたからそろそろ書くのをやめよう。自分で書いてることがわかんなくなってきちゃった。明日になって読み返すと誤字・脱字や変な表現がたくさん見つかるんだろうなぁ。1滴も飲んでないときの方が飲んでるときより変な文章を書くってどういうこと?もしかして…。依存症に1歩ずつ近づいてるの?


2002年08月13日(火)




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