ほそぼそと、つれづれに書いているきよこの日記です。
それでも、だれか読んでくれている人がいる、その数は少なくっても大きなはりあいでございます。
そんな零細日記サイトのカウンタが思いもよらない数を示していました。 1日で1820人もの人が訪れていたのです。
青天の霹靂。
秋の椿事です。
そんなにたくさんの人がこの日記を読んだかと思うとこっぱずかしいくらいです。
1820人という数を日常生活の中で考えると、ずっしりとした重みがあります。
一日で私が会話をする人の数、授業で教える生徒の数、全部の延べ人数にしたって、ぜったいその数には遠く及ばないもの。
パソコンの世界のコミュニケーションの可能性を垣間見ました。
| 2004年08月30日(月) |
(゚∀゚)ラヴィ!!ってなーに? |
パソコンの世界は新語、新概念にあふれているにゃー。
(゚∀゚)ラヴィ!!ってなーに?http://yogatori.com/movies/guitarist/kimishine.htm シュールな世界だ。
ヲタというのは、「オタク」を現してしているのかなあ?
「萌え」という言葉が新しい特別な意味を持ち始めていることも最近知った。
これらの言葉は、まず概念ありきで、それを表象すべき記号(言葉)を要求する空気があったんだろうね。 世の中の萌ちゃんにとっては、とりあえず思いもよらないことだろうなあ。
カタカナのパソコン用語がわからないのは今に始まったことではないので、もう諦めの境地です。
でも、パソコンを持った当初はヘルプで「ファイル」と「フォルダ」の説明が同じということに苦悩していたぐらいなので、ちょっとは成長しているもんね。
お客様になることが難しいところがあります。 いえいえ。 値段が高価すぎて、とか、いちげんさんお断りのお店だからということではなくって、暗黙の作法を知らないと非常に居心地悪く、なんとかやりすごして後ふう〜っと額の汗をぬぐう仕草とともにため息をついてしまう、そういうお店です。
例えば、ガソリンスタンド。
私が自分の車を持っていちばん憂鬱だったことは、ガソリンスタンドに立ち寄らなければならないことでした。
まず、ガソリンスタンドでガソリンを、と思ったときに、具体的にどの位置を目指して車を運べばいいかがわからない。
そして、なんとか車をとめるころには緊張の頂点です。
エンジンを停止する。窓を開ける。注文をする。給油口を開ける。といった動作をスムーズかつ迅速にこなさなければなりません。
たいていの場合、注文をしたところで私は「やりとげた・・・・」と安堵して、お兄さんに「給油口を開けてください」と促されます。 また間が抜けたことに、動転した私はそこでトランクを開けてしまうのが常なのです。
ガソリンを入れてもらってお金を支払ってからも気が抜けません。 スマートに退場するというミッションがまだ残っているのです。
おつりや現金カードを手早く財布にいれ、財布をかばんにしまい、エンジンをかけ、夜であればライトもつけるべきでしょう。
お兄さんはかたわらで、私をにこにこと待っています。 「ありがとうございましたー」と声をかけるタイミングをはかりながら。
私はウィンカーを出して、安全確認をしながらも、できるかぎり鷹揚に会釈などを返すべきでしょう。
ミスタードーナツやモスバーガーといったファーストフードチェーンでは、新旧もりだくさんのメニューの中から、瞬時にバランスよくチョイスし、なおかつカタカナいっぱいの名前をつまることなく注文することが求められます。
優柔不断の私は、十分な吟味ができぬまま注文してしまったメニューに後悔します。先
日、初めてスターバックスコーヒーなる所へ行きました。
私は悟りました。
もう、そんな暗黙の所作などくそくらえだと。 こちらの視力を試すかのような拗音だらけのメニュー、まだ半分も見ていないのに即決を促されても無理っす。 のろのろのかみかみでした。
でも、いいんです。 ただ、コーヒーを飲みによっただけなんですから。
給食を食べていました。 W先生と二人教卓で。 ほんのつかの間の息抜きの時間です。 生徒の聞こえないぐらいの声でちょっした本音トークをしています。
何のゲームをしているとか、最近忙しくて嫌だね、とか、そんな類の雑談です。
「きよこ先生がこんな人だとは思わなかったなあ。」 「そーお?」 「初めはめちゃくちゃしっかりした人だと思ったもん」 「でも、全然違ったねー」 「うーん大物だった」
大物というのは、学年の会議ですぐ居眠りしちゃったり、「眠らないと働けない!」と宣言して帰っちゃったり、頼まれた仕事忘れちゃったりすることを指しているんだろうなあ。
決して褒められたことではないのですが、でも、このW先生の言葉はなんとなく、うれしかったです。
多分私は世の中の先生という人々の中でもかなりだらしがないほうなんです。
だから、生徒の前ではかなり頑張ってしっかりした先生であるように振舞っています。 自分の仕事には責任を持ちたいし、生徒に信用されたいと思うから。
でも、素のだらしない自分よりも、しっかりもののふりの自分でいる時間のほうが長い毎日の中で、時々自分が他人の人生を演じているような気がすることがあります。 自分でさえ自分であるという実感が希薄なんです。
「かくあるべきという自分」になりきっているつもりでも、素の私のことを知っていてくれる人がいる。 素で話しができる人がいる。 それは心強いことです。
| 2004年08月25日(水) |
ダン・ブラウン『ダヴィンチ・コード』 |
ある夕方、興奮気味のカトリーナが、やってきて私にずっしりとした2冊の本を手渡しました。
「もう、すんごくエキサイティングで面白いから、ぜひ読んでみて!」
今をときめく、ベストセラー、全米で60週連続ベストテン入りという 『ダヴィンチ・コード』その本だった。
書名は聞いたことがあったけど、平積みの本を買う習慣のない私なので、思いがけないめぐり合わせでした。
「連休に、ぜひ楽しんで!」とカトリーナは言ってくれたのですが、連休だけで読める自信のない私は週日の夜、お布団の中でこっそり表紙をめくりました。
「ちょっと難しいよ。最後まで一気に読んだけど、わからないところがあって読み返したもん」とのことなので、慎重に読み進める。 私にとって外国文学の第一関門は登場人物のカタカナの名前を覚えることなので、一日目は、さわりだけ・・・。と思ったのですが、物語の起点となるの殺人事件の全容すらなかなか明らかにならないのです。 横たわる死体の異様な姿、何十にも仕組まれたダイイング・メッセージ!
謎のタネがふんだんにばら撒かれながら、謎解きはじりじりとお預けです。
翌日は学校で空き時間を捻出して読んでしまいました。 ・・・こんなことって前代未聞。 学校ではとても読書なんてする気になれない私だったのに。
とにかく、「知りたい!」という気持ちをかき立てられてしょうがないんです。 謎を明らかにしたい!というのもあるんですけれど、知識として興味深い記述が盛りだくさん。
まず第一にベースにキリスト教の秘密があります。 そして、ダヴィンチの芸術があります。 ヨーロッパの歴史があり、暗号があります。
「聖書は地球上の多くの人びとに基本的な道しるべを示している。コーランやトーラーやパーリ語経典、それぞれの宗教の信者を同じように導いているはずだ。(中略) あるいは、イエスは実際に処女降誕によって生を享けたわけではないと言ってやるべきなのだろうか。信仰を真に理解するものは、その種の挿話が比喩にすぎないと承知しているはずだ。」
聖書を、歴史を、象徴を、人々がどのようにとらえ、都合の悪いものについては葬り去るためにはどのような手段をとったのかという考察を事件とリンクさせて解き明かす手法には舌を巻きます。
もちろん、主人公に迫り来るピンチ、意外な真犯人、心温まる人びとのつながり、ユーモアに富んだ会話、どれをとってもエンターテイメントとして超一流の太鼓判を押しちゃいます。
連休が始まる前に読み終えちゃったよ。 とにかくひたすらに文字を追い続ける満ち足りたときが終わってしまって・・・・さびしいな。
| 2004年08月23日(月) |
クマスナイパー夫婦からの贈り物 |
群馬県子持村に在住のヨウちゃんがくまにはまった。“ リラックマ”というゆるキャラらしい。
夫婦でいそいそゲーセンに出かけて行っては狩るんですって。
「ワンショットワンキル」で獲物をしとめるのはだんなさんののぶちゃん。 のぶちゃんはひももついていない箱ものをしとめる時に後ろで見ている女子高生に「うそー!すごーい!!」と言われるのがたまらなく楽しいんだって。
そして、ヨウちゃんはリラックマのかわいらしさがたまらないんだって。
なんて幸せな夫婦でしょう!
そんな二人から、私にも“リラックマ的しあわせ”のおすそわけが届きました。
箱いっぱいにリラックマ! でかいのから、手のひらサイズ、コップまで。
「ちなみに、うちにはジャンボ枕(送ったのでいちばん大きいの)が12個もあって、ピラミッド状につんであって“癒しビーム”を放っているよ」とのこと。
難攻不落のリラックマ城だね・・・。 一緒に『リラックマ生活〜だらだら毎日のススメ〜』という本も。 ゆる〜くぽじてぃぶ。
「おこるとつかれちゃいません?」
「忘れるのもわるくありませんよ」
「そのうちやりますって」
→くわしくはHOMEボタンをクリックプリーズ。
こんな詩知っていますか? 昔中学校の国語の教科書に載っていた「夕焼け」という吉野弘さんの詩です。 (夕方の満員電車で、おとしよりにせきを譲った少女。そのとしよりが電車を降りるとほかのとしよりが少女の前に押されてきて、また席を譲る少女。そのとしよりが降りた後、また他のとしよりが座る娘の前に押されてきた。)
可哀想に/娘はうつむいて/そして今度は席を立たなかった。/ 次の駅も/次の駅も/下唇をキュッとかんで/身体をこわばらせて---。/ 僕は電車を降りた。/ 固くなってうつむいて/娘はどこまで行ったろう。/
やさしい心の持ち主は/いつでもどこでも/われにもあらず受難者となる。/ 何故って/やさしい心の持ち主は/他人のつらさを自分のつらさのように/感じるから。/ やさしい心に責められながら/娘はどこまでゆけるだろう。/ 下唇を噛んで/つらい気持ちで/ 美しい夕焼けもみないで。
この詩についての発問 「やさしい心の持ち主は誰ですか?」
生徒は「少女!」と自信満々で答えます。
「なぜ?」と問うと生徒は口をそろえて言います。 「二回もお年よりのために席を譲ったから!」
「いいえ。それは違います。お年寄りに席を譲ったから少女がやさしいのではありません。 それが理由であれば、少女は親切だとは言えるけど、やさしいとは言えない。親切とやさしさを履き違えてはいけません。」
これは中沢先生の授業です。 私は、うーんとうなってしまいました。
「やさしさって???親切って???」
確かに、少女はやさしい心の持ち主にちがいないです。
でも、その根拠は、席を譲ったからではなく、 “他人のつらさを自分のつらさのように感じる”ことができるからなんです。
私は初めて、やさしさと親切の違いを知りました。 今まで私の中でこの二つは判別されないぼんやりをした概念でしかなかったのです。 二つの概念がとても近い、似た意味を持っていることは確かです。 でも、大きな違いは、親切は、人のためになる行為そのものを表していて、やさしさは人の身になり、ためを思う心持ちであるということでしょう。
だから、ときに、やさしいがゆえに厳しい人がいたり、親切で気がきくけれど、本当は自分のことしか考えていない人がいたりするのです。
私は親切だけど、やさしくはないかもしれない。
「私ってそんなに安く見えるのかなあ?」と言われて私は言葉に詰まってしまった。
Kちゃんとはは私のごく親しい友達です。 あるときのコンパでKちゃんはUという人と知り合い、、メールをしたり、ご飯を食べに行ったりしていました。 でも、Kちゃんはつきあう気はまったくなく、Uさんが何度も誘ってくるので、あんまり断っても悪いから・・・、という感じでした。
その日もちょっとでいいから、と会いにきたからドライブに行ったそうです。しばらく走った後、どこか駐車場のようなところに車をとめて話をしていたらしいのですが、Uさんが突然せまってきたそうです。 Kちゃんが 「私はつきあってもない人とそんなことできる女じゃない」と言うと、Uさんが言ったそうです。
「僕も、好きな人にはもちろんこんなことはしないけど、・・・」
とにかく、その場はなんとかなだめて家まで送ってもらって、後日、Kちゃんはなんとなく気まずかったのでメールを送りました。 「Uさんとは、友だちとしてならこれからも仲良くしていきたいと思ってるけどそうじゃないならつきあえないな」 Uさんからの返事は
「わかった。じゃーねー。バイバーイ」
そして、冒頭のKちゃんの言葉です。
Kちゃんはすごくオープンで自由な性格で、初対面でも全然臆することなく楽しく話すし、あっけらかんと男の人と下ネタで笑えちゃう。
「話をして親しくなるのとかめんどくさいって思っちゃう。だって結局やることは同じでしょ。話なんかしてないで早くやればいいじゃん」と豪語する。
私の周りにはあんまりいなかったタイプだから、そういうKちゃんが私は好きだし、Kちゃんも確信犯的にそういう性格を楽しんでいるのだと私は思っていたのだけど、それは私の勘違いだったんだね。 Kちゃんはそうは言いつつも、安い女になるつもりなんて毛頭なかったんだね。
でも、私はKちゃんに一連の出来事を聞いて、なんて最低な男だ!と、腹も立ったんだけど、一方でKちゃんに心から肩入れすることもできなかったんだよ。 Kちゃんにすごくスキがあって、それがこういう事態を招いたとも思うから。
でも、それなら私は、Kちゃんに注意してあげるべきだったのかなあ。
「嘘も方便」か、「正直は最良の策」か・・・。
とにかくやってみよう。よっこいせ。と、重い腰を上げて職員会議に臨みました。
2学期が始まります。
校長先生のお話です
「教師の仕事は完璧主義者には不向きだと思うときがあります。 どちらかというと「まあいいか」というようなアバウトさが重要な資質になるときもあります。しかし、これもケースバイケースが。
足らないところや欠点ばかりが見える教師にはつらい仕事です。 むしろ、「子どもが好きになる」「いいところが見えてきてうれしい」というような楽観主義であるといいのではないのでしょうか。
その上で、「熱い願い」と「しなやかな受容」のできる教師としての精進を図りたいものだと思います。
教師の熱い願いは、時として強い期待感になっていきます。 そのことが「こんなこともできないのか」と焦ったり落胆したりする結果となります。 真面目で几帳面な教師の学級で比較的多くの「学級崩壊」現象が起きると言われる所以でもあります。
絶対に焦ってはならないと思います。
できなくて当たり前、やれなくてもともと、だから学校へ来ているのです。」
ああ、私はカチカチ頭の几帳面教師だなあ。
自分のことに対しては人並みはずれて大雑把なのに、生徒のことになると小さなことがすごく気になってしまう。
「このサインを見逃していたら、あとで取り返しがつかないことになる」と、必要以上に手を入れてしまう。
実際には子どもは自然そのものだから私の思い通りに「ああすればこうなる」ような存在ではないのにね。
できなくて当たり前、と思って受け入れていく姿勢を大切にしないとな・・・。
そう考えると職員室も教室のようなものです。
校長先生、教頭先生が担任の先生で、ほかの先生方が生徒。
今年やってきた教頭先生はとっても細かいんです。 書類のこととか、机の上の整理整頓とか、とっても細かい。
私は注意されるたびに「こんなこと大して重要じゃないじゃないのに、細かく言わないでほしい」と窮屈に思っています。
でも、私は同じような思いを生徒に抱かせていると思う。
私は自分がやられて嫌なことをしないようにしよう。 長い目で、少しずつ成長する姿を楽しめるようになろう。
『シュレック』も見ずに行ってきました『シュレック�供�
きっと、前作を見ていたらもっと面白かったんだろうけど、それでも、とても楽しかった〜。
おとぎ話仕立てなのに、大人の映画だから、ブラックジョークがてんこ盛というギャップがとっても子気味よくって、けらけらと笑っちゃった。
このお話しでは、フィヨナの両親に二人が結婚を報告しに行くのですが、そういう場面での会話がいかにもアメリカっぽい。
「私の両親よ。愛してくれるわ。」みたいな。
アメリカのホームドラマのスタンダードが底にあるから安心してブラックで笑えました。
そして、スタンダードなハッピーエンド。 そうでなくっちゃとメリケン気分で指をならす快作です。 クッキーマンのジャンボが水につかっちゃうシーンでこっそり泣いちゃったよ。
| 2004年08月18日(水) |
寺山修司『さかさま恋愛講座 青女論』 |
少年と少女、老人と老女という言葉があるのに、どうして、青年に対する「青女」という言葉がないだろうか、という筆者の疑問から「青女」という概念を作り出し、水先案内をしよう、というエッセーです。
この本が発売されたのは昭和56年ということなのですが、なんでこんなに新しいんだろう・・・。 そして、人を納得させる真理というのはこういうふうにシンプルなものなんだ、というのを強く感じました。 「結婚」「性」「家事」「化粧」「老後」「おかね」「愛され方」というようなテーマについて、斬新で子気味よい論が展開されています。
ジェンダーの問題というのは、因習や慣習にからみついているためにそれを差別だというように見極めることはとても難しいことです。 男女同権が叫ばれ続けて久しいですが、世の中の理解はそれほど高まらず、かえって間違えた認識がはびこっているのを感じていたのですが、この本では、もう、これ以上なくすっきり説かれていて、すばらしい!
〜子供らしさが、大人の作り出した「子供観」にもとづいているように、女らしさもまた、男の作り出した「女性観」にもとづいていることはあきらかです。 だから、それへの反動として出てくる「男まさりの女性」のタイプもまた、「女らしさ」のネガチーブなあらわれ方にすぎないということになり、男性を模倣してみたところでそれは「新しい女」でも何でもない、ということになってしまうのです。(中略) 私は、ます「らしさ」からの脱出が、新しい女として生きるためのステップではないかと思います。そのことは、何も突飛なことをしてみようという提案などではありません。 真冬に裸で歩いたり、顔中に口紅を真赤に塗って歩いたりしても、それは「異常者」として、べつの「らしさ」の中に組み込まれるだけです。ここでいう「らしさ」からの脱出というのは、固定しない、他人の生き方にとらわれない、ということです。」〜
| 2004年08月17日(火) |
がんばって!という無責任 |
オリンピックが始まりました。 4年に一度のスポーツの祭典です。
それに参加するために選手たちが犠牲にしてきたものや、乗り越えた障害を考えると、いい結果が出せますように、という気持ちでいっぱいになります。 ただ競技に集中して、ベストが尽くせるといいなあ、って思います。
でも、テレビのコメンテーターはどうしてあんなに軽々しく 「がんばってくださいね!みんな応援してますからね!」 って言うんだろう。
選手は内心「その競技のことをよく知りもしないあなたに言われなくても、これ以上ないってぐらいがんばるつもりだよ!」って思っているんじゃないかな。
「がんばる」ことはとても辛いし孤独なことです。 もし本当にその競技について深く理解していたら、もし、その選手のそれまでの努力を間近で見つめ続けてきたのなら、むやみに「がんばって」なんて無責任で他人事みたいなことを言うのはためらわれるものなんじゃないかなあ。
ずっとずっとがんばり続けてオリンピックへの切符をやっとつかみとった選手に向かって、さらなる努力と克己を要求するなんて残酷だよ。
はるかなる高みへ上り詰めた選手の姿を、リアルタイムで見ることができる幸運を噛みしめようよ。
| 2004年08月16日(月) |
フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』 |
孤独だなあ・・・・淡々とした孤独です。 上流階級の人々の豪奢で優雅な生活が描かれながら、その誰もが孤独なのです。
お風呂で読んでいて、私まですっごく寂しくなってきてしまいました。
なぞに包まれた邸宅の主ギャッツビーはただ一人の良家の子女を自分のものにすることだけが望みでした。 そして彼女は愛のない結婚生活を絢爛豪華な社交で紛らわせています。 主人公ニックは夢を抱いて東部に出てきたものの、東部の社会になじめない自分に劣等感と居心地の悪さを感じています。
唯一の救いは、最後の最後で芽生えたギャッツビーと主人公との友情でしょうか。 かなしいにゃあ。
それにしても、私は野崎孝さんの訳はまったく苦手だと改めて実感しました。
『ライ麦畑でつかまえて』のときもだったんだけど、わかりにくいと思うのは私だけなのかなあ? まず、変に口語っぽい文体が、かえって違和感を感じさせるんです。 例えば、良家のレディに 「あたし、あんたをあたしの食卓にお招きできてほんとにうれしいのよ、ニック。」 なんてはすっぱな話し方をさせています。
それから、叙述が婉曲的というか、まわりくどくないですか?
| 2004年08月15日(日) |
『kissing Jessica Stein』 |
「あまりにも単調で、変化のない人間関係を繰り返してしまうのは、惰性だけが原因だとはいえないだろう。 予測できない新たな経験に身を投じるのを恐れ、内気になってしまうせいだ」 というリルケの一節を読み、恋人のできない新聞記者の主人公ジェシカは思い切って、レズの恋人募集の広告に電話をしてみます。
その広告主へレンはじつはレズではなく、冗談で広告を出したのですが、 ジェシカに会ってレズのふりをしているうちに、本当に二人は恋に落ちます。 でも二人がつきあうためにはさまざまなハードルがあって・・・。
女同士の恋愛という珍しい設定だけど、不思議と違和感はなくて、すんなりと感情移入できました。人を好きになるということは性別すら関係なく、自然なことなんだとおもえました。
しかし、それでもなお社会には偏見が満ちていて、それが二人の関係に影を落とします。
重く深刻になりがちな問題を、軽いタッチで描いていて、単純にに楽しめました。
今日の日記は、2004年3月21日に書いた『セレンディピティ』の感想の対を成すものです。
ananに載っていた角田光代さんのエッセイ。
「私は激しい運命論者だった。 恋愛も、友人も、あるいは出会うものごとすべて、運命という人知の及ばぬものが作用していると、ずっと信じていた。(中略) 交際をはじめた彼と喧嘩するたび、自分に言い聞かせていた。 私たちは運命的に出会ったのだから、うまくいかないはずはない。 私は多分、関係よりも運命を信じていたんだと思う関係がこじれても、運命が何とかしてくれると、漠然と思っていたんだろう。そのうち、合うことより合わないことが増えてきた。 それはもう、運命なんて言葉から見たら本当にちいさな、日常レベルの相性の問題だった。 けれどそういったすべてを、運命は解決してくれないのだった。 日常レベルの相性は食い違ったままどんどん大きくなって、私たちは別れた。(中略) 運命や縁という、人知を越えた何かは、きっとある。 どんなに小さなものでも意味のない出会いなんてなくて、すべてにきっと意味はあるんだと思う。 けれど、運命がしてくれるのは、そこまでなのだ。それからあとは、私たちがなんとかしなくちゃいけない。」
運命によって出会いは導かれても、そこから先はお互いがいい関係を築くために動かなければ何も始まらない。 一歩進んだ運命論ですね。数ある出会いの中で、ピンときた出会いは漫然と自然の成り行きに任せておくのではなく、自分の意思で掴み取っていかなければならない。
私は自分のやりたいことしかできないし、納得できなければ一歩も先に進めない頑固者だ。 だから、自分の運命と出会いに責任を持つこの前向きな考え方はいいなあ、と思いました。
6時に目が覚めたら、おばあちゃんはもうお仕事を始めていた。 「明日の朝おばあちゃんは漬物つけるから、きよこさんは朝ごはんの用意をお願いね」って言われていたっけ。
今日も晴天、とても気持ちいい朝なので、私も漬物を漬けるお手伝いをしました。 塩漬けにされた山ほどのしま瓜に酒かすと砂糖を塗りたくって再び漬け込みます。 二人で食べるには多すぎるのに、と思うほどの量で、けっこうな労働です。 一人でやるには大変だあ。
大家族の頃から毎年毎年おばあちゃんはこうやってせっせとつけ続けてきたんだろうね。 一家の主婦の仕事です。 誇りと責任を感じます。
「朝めし前」というのは今では慣用句として、あんまり大変ではないことを言うけれど、実際の「朝めし前」のお仕事は農家にとってとっても大事なものなんだと実感する今日この頃。
朝ごはんを食べる前の涼しい早朝は仕事のはかどる時間です。 そして、早起きする分日差しの強い時間帯にお昼寝をするのです。 一仕事した後のご飯はとってもおいしいよ。
10時に病院にいくとおじいちゃんちょうど最後のリハビリに行くところだったのでついていく。 家に戻ってもできるリハビリの方法をしっかり教わりました。
廊下で主治医の先生と出会い、おじいちゃんが退院の挨拶をした。
それを聞くか聞かずかのうちに「よかったねー。バイバーイ」と幼稚園児にするようにヒラヒラ手を振られる。
カチンときた。 「うちのおじいちゃんに何をする!」ぐらいカチンときた。
部活動も小休止で少し時間ができたので、また田舎に行く。 明日おじいちゃんが退院するというのだからグットタイミング。 こんなときぐらいは役に立ちたい孫ごころ。
夏休みのためか、いつもより少し混み気味の高速を走る2時間、私は高速道路がいちばん快適に流れるように、法則を作ることはできないか、と、そんなことをずっと考えていました。
私運転うまくないので、高速道路で混雑し始めるとすごくドキドキするんです。 前の車が、ハザード出して減速したりしたら「やめてー!!」って思いますう。 すかすかに空いていると思ったら突然ぎゅうぎゅうに込みだしたりするようなことがないために、高速道路はゆっくり走る車とどんどん飛ばして行きたい車できちんと住み分けができるようなシステムだと思うのですが、さらに一歩推し進めて、もっと快適な高速道路になるための法則があればいいんじゃないかと思ったんです。
例えば、走行平均速度。 私は空いているときには走行車線で80km/時ぐらいでのほほんと走ってしまうんですが、それだと、すぐに後ろが詰まってしまいます。 いろいろ試みてみたところ、100km/時〜110km/時だと前にも後ろにもつまることなく快適走行。 そうすると、必然的に追い越し車線は120km/時〜130km/時ぐらいかなあ。
私はのろのろ走行車線を走りながら、右の車線をびゅーんと飛んでいく車を追跡したい衝動に駆られます。 のんびり走る私の車とその車の位置がどういうふうに離れていくのか、俯瞰で追ってみたいものだえ。
20年以上を生きていると、不思議なことにであうものです。
それは、偶然なのだろうけれども、必然にもにた予感があるのです。 一月ほど前のことでした。 初任者研修の仲間と白木屋で飲みました。 そのとき、ビールを飲んだ量に応じてサマージャンボ宝くじが当たるスピードくじを引ける、というキャンペーン中でした。 私たち十人がまず一枚ずつくじをひいてみました。 みんなハズレ。 なーんだー。と、盛り下がったところで、「もう一枚ずつどうぞ」というつるの一声があり、またひとしきりわあわあ言いながらめいめいがくじを引く。
私は一番自分の近くにあったくじを引く。
開くとアタリの文字が! おお、やったぞ!
結局その場であたりが出たのは私のその一つだけでした。
そういう経緯で私のもとに舞い込んできた一枚の宝くじだったので、「きっとあたるんだろうな」という不思議な予感がありました。
そして今日、インターネットで当選番号を確認してみると・・・
ありました!5等!
でも、あんまりにも想像したとおりになってしまって、拍子抜けなほどです。
こんなことってあるんだねえ。 まるまる3000円もうかっちゃった。
つきあってみて初めてわかることってあるのかなあ? 一緒に仕事をしたり、食事をしたり、お話したりしている中では見えないことってあるのかなあ? 例えば意外と几帳面だったり、こだわってる部分を知ったり、そういうことはあると思うんだけど、性格的なものは隠したってわかっちゃうって思っていたのですが・・・。
桃ちゃんと寺島先生のことです。 つきあいだしてみてわかった寺島先生の束縛癖と激情性。
桃ちゃんが放課後先に帰るときに一言メールを入れないのが気に入らない。 友だちと夜ご飯を食べに行って家にかえってメールをしないのが気に入らない。 男の先生もいるような飲み会に行くのが気に入らない。 楽しげにほかの男の先生と話して媚を売っているに違いない。
「それもこれも桃ちゃんのことが好きな気持ちの裏返しだからしょうがないね」と桃ちゃんとは話していたのですが、ただの嫉妬ですまないくらいの口調でなじられるんだそうです。
怒鳴り声でまくしたててて“キレた”状態。 反論をさしはさむこともできないんですって。
普段の寺島先生ってそんな感じは全然なくって、はきはきとしたさわやかで面白い青年なんです。 でも、一度だけ、DV寺島を垣間見たことがありました。
一学期の打ち上げの飲み会で、桃ちゃんは「一次会で抜け出すように、自分も後でぬけだすから」という指令が下っていたので、それとなく消えようとしたのですが、おじさん先生に「二次会にきなさい」と手首をつかまれて会場に連行されていったのです。
会場入り口にいた寺島先生が桃ちゃんを睨みつけた顔。
一緒にいた私も凍りつくほど・・・・怖かった。
驚いたと同時に「DVだよ」という桃ちゃんの言葉がやっとわかりました。
「それでも普段はふつうに楽しいんだよ。 スイッチ押さなければね。 私もずいぶん学習したから地雷踏まないようにしてやるよ」 それも一つの形なのだろう。
夏休みを機に二人はアパートを借りて同棲を始めました。
今年の夏休みの目的は休むことです。 いつもだと自由な時間ができると何か計画を立てたり、目標を立てたりしてしまうのだけど、今年は、とにかく休養一番!
健康を取り戻すのです。 目覚まし時計をかけずにぐずぐず眠る日が続くうちに、ちょっとずつ余裕ができてきました。
今日は“健康回復院”に行ってみる。 “健康回復院”とはなんぞや。
病院でもマッサージでも整体でもない。 紹介してくれた子いわく、「とても怪しいんだけど、確かにそこに行ってから調子がよくなった」とのこと。 その事実があるならばやってみる価値があるかなあ、と思って予約をしました。
そこは紹介でしかお客をとらず、しかも民家で看板も出ていませんでした。 おそるおそる呼び鈴を押すと、ごく普通のおじさんが出てきました。 その家にはおじさんとその家族のものらしい表札が出ていました。 玄関を入ってすぐの部屋に通されました。 ごく普通の6畳間。
やってもらったことは、カウンセリングと催眠療法みたいな感じ。 「ストレスや悩みが脳と体の各部分の連絡を鈍らせている状態だから、悪いイメージ、経験が体に影響を与えている状態を断ち切ることをやります。なるべく具体的に、原因を思い浮かべてください。それが特定できればほとんど解決したも同然です」
そして、私の中の原因というものを具体的に頭に思い浮かべながら
♪ドレミファソラしど〜
と唱えたりしました。
確かに、すごくシリアスな出来事だったのにもかかわらず、ハ長調の音階がBGMに流れると、すごく牧歌的なムードすら漂いました。
ここまでだと「なんだ思い込みの問題なのか?」って感じなのですが、
「あんまり人に相談したりすることは得意じゃないですね。いろいろと自分の中で考え込んでしまいますね。先の先のことまで考えるけど、きまってマイナス思考ですね」と、突然言われて驚いた。
私はそういうそぶりはしていなかったし、初対面の人にそういう指摘をされたことは初めてだったから。
おじさんがそう判断した根拠は、私の体で、首の右後ろにある筋肉が極端に弱っていたことだそうだ。
その筋肉が弱る人というのは先に述べたような性格的な特徴があるんだそうだ。
そして、その筋肉が弱ることによって、伸びきり、頭を正しい位置に保つことができず、うなだれた状態になってしまい、ほかの筋肉がそれを補おうとするため肩が凝ったり、頭痛がしたりという症状が出てくる、と。 なるほど。 弱った筋肉を鍛えるための体操を教えてもらってその日はおしまいです。
いつの間にか背を丸めてうなだれた姿勢が癖になっていたよ。 背筋を伸ばして、あごを上げる。それだけでも少し気持ちが前向きになるきがする。
面白いページを見つけたので、私も本屋さんを開店してみることにしました。
もちろん架空の本屋さんだから、一銭のもうけもないのですが、自分が読んだ本を感想と併せて陳列できるのは、おもしろい♪
このページの“HOME”をクリックするとジャンプするんだ。 ちょっと寄ってみー
どっさりと野菜をもらってかえってきました。 今年の夏休みの裏テーマ「しっかりご飯」実践中です。
暑いとどうしても口当たりの涼しい、軽いものばかりを食べてしまい、温かいご飯はなかなか食欲がわかないのですが、暑くってもおいしく食べられるご飯を発明しちゃった♪
それは、みょうがとしょうがの炊き込みご飯。
刻んだみょうがとしょうがをだし汁、しょうゆと一緒に炊くだけなんだけど、さっぱりしていていけるんだ。
みょうがとしょうがのゴールデンコンビ、ほかの料理でも大活躍。炒め物にも合うし、オーソドックスに冷奴やそうめんの薬味にしてももちろんおいしい。
朝ごはんに間に合うようにとおばあちゃんの運転手で病院にいく。 おじいちゃんの病室はほかにも3人の人が入院しているのですが、気のいい人ばかりでいつも笑いが耐えないようです。
おばあちゃんはこまごまと身の回りの世話をしたり、お使いをことづかったり。
ひいおじいさんとひいおばあさんが亡くなってからの15年ほどをずっと二人きりで暮らしてきた二人です。 おじいさんが入院して、毎日朝と夕方おばあちゃんは病院に通っているそうです。おばあちゃんは車を運転できないのでいつもはタクシーを呼ぶそうです。「何って用事があるわけでもないけどね、それでも気になるからね。」
かつて、いつもやさしく朗らかなおばあちゃんが、おじいちゃんに対する積年の愚痴をもらすのを初めて聞いたとき、私はとてもびっくりしたものでした。
でも、、好きとか嫌いとか、そういう私の知っている尺度なんかとうの昔に超越した二人なんだね。
いっぽうその頃、家では、母と叔母が網戸のいっせい取替えに汗を流しておりました。 プロの主婦が3人そろうと、ほんとに頼もしい。
その辺でぶらぶらしててもご飯は出てくるし、洗濯はぱりっとできてるし。「さすがプロの仕事は違う!」 なんて軽口たたいて甘えちゃいます。
でも、尊敬の念を抱いたのはほんとだよ。 洗濯物の洗い上がりが違うんだよねえ。何気なくたたんだだけなんだろうけど、私がたたむよりもちゃーんとしている。 まだまだ修行不足です。
おじいちゃんが草刈機で左太ももを切って入院しました! うわーーー!!大変だあ〜〜!
私が教職員大会から帰ってかけつけると、母と叔母と従兄弟も来ていました。
さっそく病院にいくと、すやすやと昼寝するおじいちゃん。 とりあえず元気そうでほっとしました。
事の顛末はこういうことです。 ある日おじいさんは山へ草刈りに出かけました。 草刈機で仕事をしているうちに一匹の蜂がおじいさんにまとわりついてきました。 おじいさんは草刈機の排気ガスで蜂を追い払おうと、草刈機のお尻を蜂のほうへ向けました。 しかし蜂は嫌がって、飛び回ります。おじいさん草刈機を夢中で振り回すうちにアウチ! (オーマイガッおじいちゃーん。なにやってるんだよー)
しかし、そこからがおじいちゃんの面目躍如。 腰の手ぬぐいで傷口をきつく縛って止血し、自力で山から車道へ出ました。 そこに知り合いのおじさんが通りかかり病院まで運んでくれたのだそうです。
「いやあ、もうだめかって思ったぞい」 なんて、おじいちゃんひょひょひょと笑い話にしてました。 骨と大きな血管に傷が至っていなかったのが不幸中の幸いでしたが、もともと右足の膝が悪いこともあって、しばらくは歩くこともできないそうです。
毎日山に田んぼにくるくると働くことが生きがいのおじいちゃんが、ずっと病院のベッドに縛り付けられている姿は見るに忍びないのですが、きっと私よりも本人のほうがずっと辛いんだろうなあ。
冗談めかして「いっそあの時ひといきにいっちゃったほうががきまりよかったかもしれんな」なんて言うから、私、困っちゃったよ。
全国教職員卓球選手権大会が岡山で開催されました。 長野県選手団の一員として私も初参加。
教師で卓球をしている人を全国に求めると、こんなにもたくさんいるのかあ・・・。と、感無量。
そして、みんなとっても上手で嘆息。 私もけっこう強い気でいたんだけど、苦戦熱戦でした。
気持ちの面で容易に崩れてくれないんだよー。 いくら点差が離れても、ポーカーフェイスで、超やりにくかった。 先生おそるべしだ。
女子チームは2回戦で負けてしまったんだけど、男子チームはどんどん勝ち抜いて、優勝しました! 去年に引き続きの2連覇です。
わーい。ぱちぱち。
うまい人の卓球は見ていて気持ちいいですよねえ。 たくさん目の保養をした大会でもありました。 スイング一つ、フットワーク一つどれをとっても無駄がなくって、見ていてスカッとしました。
ある女子選手の試合を見ているときなど、ラケットを握るグリップがものすごく美しくて、見入ってしまった。
フェチなのか?!
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