2002年06月22日(土) |
理不尽そして非情なるもの |
けさの朝日新聞に、細川周平氏(東京工業大学助教授)のサッカーに関する小論が掲載されていた。この小論は、私がサッカーに抱いてきた感情にもっとも近いものの1つであり、かつ、サッカーの本質をもっとも的確に論じたものの1つだといえる。 細川氏は、≪なぜ日本代表が「夢と希望を与えた」というような大盤ぶるまいの寛大さで讃えられるのかわからない。選手の頑張りを見るだけで感激できるのかわからない。「皆で一生懸命応援できてよかった」というサポーターが信じられない≫と、サッカーファンおよびサッカー報道がつくりあげる現状に疑念を向ける。まさにそのとおり。この疑念の本源には、サッカーというスポーツが理不尽さ、不条理さ、非情さを本質とするものだという、細川氏の鋭い洞察がある。私はこの洞察に全面的に同意する。 細川氏の主張を大雑把にまとめると、サッカーの結果は諸要素の合成によって導かれる合理性によって導かれるものではなく、運に委ねられたものだということになろう。もちろん、世界の一流プロチームと草チームが戦えば結果は明らかだが、少なくとも、世界各地の予選を勝ち抜いてきたナショナルチームが戦うワールドカップでは、勝負は「ときの運」なのだ。私もそう思う。 サッカーでは、まちにまった1点が入ったとき、歓声とともにストレスは解消されるがそれも一瞬のこと、次はリードをいつ失うのかという心配に変わる。リードしていてもされていても同点であっても、観戦中は悲観論が己を支配する。サッカーは、人の及ばない神の姿をボールに代えて見ているのに等しい。そして、勝利、あるいは敗北、はたまた引き分け、あるときは、突然死(Vゴール)、罰(PK戦)などという過酷な体験を経て勝敗が決まる(PK戦とは、決着を回避した者に与えられる罰である)。 だれもしらない神の意思の化身であるボールが主審の笛とともにその手に収まるときこそ、まさに「審判のとき」である。「審判」は、どんなに受け入れがたいものであっても、現実としてわが身に受け入れなければならない。応援するチームが勝っても負けても、やりきれない思いが沈殿する。だから、フーリガンならずとも、暴れてみたくなるというものだ。暴れることができない私のような小心者は、はやく忘れようと努めるばかり。私はサッカーに興味はないの、サッカー、あれは労働者のスポーツさ・・・。 サッカーほど、爽快さ、夢、希望、未来、前進といったおよそポジティブな精神に反するものはない。サッカーほど、努力、献身、自己犠牲が報われないものはない。そして、サッカーほど「わからないもの」はない。だから、人はサッカーに夢中になる。 もし、人が夢や希望や努力や未来といった「物語」を求めたいのならば、サッカーにではなく、なにかほかのスポーツにしたほうがいい。サッカーは必ずや裏切るからだ。もちろん、裏切らない時もある。が、サッカーには「常勝」などあり得ないし、「右肩上がり」という「成長」もない。 いまから10数年前、日本人はすべてが「右肩上がり」であると確信していた。一生懸命努力すれば報われ豊かになれると確信していた時代だ。だが、その確信はバブル崩壊で破綻する。いまの日本人は、努力しても無駄だという虚無感に支配されている。ところが、サッカー日本代表が「右肩上がり」を実践して見せてくれた。日本人はそこに、過去の「栄光」を見た。しかし、いっておくが、それは幻影以外のなにものでもない。「予選落ち」から「予選突破」、つぎは「ベスト8入り」などという「成長」を、ゆめ確信してはいけない。ホームのW杯で運よく「ベスト16」か、次はアジア予選で勝てるかどうかだな、でちょうどいい。サッカーには悲観論こそがよく似合う。 なお、朝日新聞の「敗北を抱きしめる日本人」というタイトルは、この小論の本筋にはそぐわない。細川氏の主張は≪サッカーに頑張りではなく、運に委ねられた私たちの弱い人生を見いだそう。理不尽であるがゆえに、運命を愛することを学ぼう。執念深い運命論者にとっての希望は、そこにこそある≫という部分に集約されているからだ。 今回のサッカーW杯では、日本の予選突破という「勝利」と、ベスト8入りを果たせなかったという「敗北」とが同居している。前者には、過去の「右肩上がり」の幻影をみる不遜な「大人」の、そして、後者には、敗北を抱きしめているさびしい「若者」の、それぞれの思いが重なっている。両者はまるで立場を異にしているようでいて、実はサッカーからもっとも遠い存在であるという一点において同一なのだ。皆でなにかを共有したい(しなければいけない)という集合主義的観点において共通なのだ。だから、不遜な「大人」とさびしい「若者」で構成されているいま現在のサポーターが、「執念深く」サッカーを愛するとは思えない。彼らにとっては、ワールドカップは格好の一過性の夢だからだ。サッカーが日本に根付くのはまだまだ、遠い先の話なのだ。
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