2014年03月14日(金) |
浦和サポはサイテー集団 |
8日のJ1浦和−鳥栖戦(埼玉)で一部の「浦和サポーター」が「JAPANESE ONLY」という差別的な横断幕を掲出した。報道によると、この横断幕はスタジアム内部に掲示されたらしい。それでも、この「浦和サポーター」はサイテーだ。サポーター(以下「サポ」と略記)の名に値しない。
この横断幕にレイシズムという思想的背景があるのか、あるいはその意味を解さない低偏差値集団の思いつきなのかはわからない。前者であれば、日本を取り巻く右傾化傾向、人種差別(レイシズム)、排外主義等がエンターテインメントの世界にも浸透している不気味さを感じさせる。後者であれば、この(横断幕を出した)やからは、小売店舗や事務所あるいは飲食店の従業員専用扉に掲示されてある「STAFF ONLY」(正確には「STAFFERS ONLY」)を真似て、ゴール裏が自分たち(=日本人)の独占する場(彼らから言わせれば聖域)であることを掲示したかっただけなのかもしれない。それでも、無知は罪なのだ。この言葉は人種差別を表す以外のなにものでもない。
Jリーグ村井満チェアマン(54)はこの案件に対してけん責に加え、23日の浦和のホーム清水戦(埼玉)を無観客試合として開催することを決めた。一方、サポによるトラブルが頻発する浦和は、今後の防止策などを発表した。当然の措置だ。併せて、この横断幕グループについては、埼玉スタジアムへの出入りを禁止する措置が必要だと思う。
浦和サポはJリーグのなかで最も熱心な集団の一つだと言われているが、実際には、その一部の正体は暴力を伴わないフーリガンだったのだ。彼らの“クラブ愛”は、独善的エリート意識・排他主義に満たされた偏愛にすぎない。(一部の浦和サポの)リーダーたちはサポを閉鎖的に組織化し、過激な行動へと向かわせる。過激化こそがクラブへの愛だと錯誤して。
そしてサポ間で過激さを競い、もっとも過激な集団が、いくつかあるサポ集団において主導権を握るようになる。過激さがサポの熱意の尺度だとする負の連鎖が浦和サポ内部に常態化しつつあるのではないか。過激さの度合いが、サポ集団を序列化するメルクマールになっているのではないか。
サッカーは「代理戦争」と言われるとおり、グローバルには過激な応援が常識になっている。日本のサポは生ぬるいとも言われる。しかし、それは愛するクラブチームが全力を出さない無気力な試合やプレーをしたことに対する叱責・怒り、そして、相手チームのラフプレー等に対するブーイングにとどまるべきだ。もちろん、チーム強化を怠っているクラブ経営者に対する抗議があってもよい。それらは、愛するクラブチームを強くするための圧力となろう。
ところが、今回の横断幕はクラブチームを励ましたり強化したりするメッセージが一切含まれていない。サポ内部における自己中心的エリート意識だけではないか。彼らにとって重要なのは、試合を見て分析し、勝利へと導く声援を発することではない。このサポ集団のリーダーは自分の指示でいかに統一のとれた応援をするかがすべてなのだ。リーダーである己の指示に一般サポを従わせることだけが目的なのだ。彼らが求めているのは、愛するチームの勝利ではなく、応援のかたち――応援を指揮する自分に対する自己満足と自己陶酔――だけではないのか。
サポはサッカー選手ではない。フィジカルエリートになれなかった者、すなわち、スポーツ界の主役ではない。だから謙虚さを忘れてはならない。サッカーができない者が、応援という位相において優劣を競い合い、序列化を図り、サポリーダーの主導権争いをするようなことは避けなければならない。
そのような無意味な主導権争いを抑止するのは、サポ一人一人の主体性だ。フィジカルエリートになれなかった者が、サポという世界で自己抑制的にサッカーの試合に熱くのめりこむことだ。試合に熱中し、自己を忘却することはかまわない。それが自分の応援のスタイルならばそれを貫いてほしい。まわりの人と合わせた応援は必要ない。リーダーに従う必要もない。そもそも、応援にリーダーはいらない。
サポ集団の応援をリーダーの自己実現の場にしてはならない。サポのリーダーたちが目指すものが、彼らが社会生活で果たせなかったなにかしらの代償、すなわち、その鬱憤晴らし的代替行為であってはならない。サポ一人一人が、自分流の応援と応援スタイルを貫くことで、スタジアム全体が自然に調和のとれた一体感を生み出すようになることが理想だ。リーダーに従う人工的人為的統一感は、まったくのまやかしにすぎない。
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