15's eyes
- 2003年04月12日(土) 彼との記憶、記録
週末に従姉妹の結婚式に出席してきた。
式そのものは、会費制のベーシックなものだったけれど、
何がよかったかって、二人の記録を
パワーポイントでプレゼンっぽくまとめた
フォトショーがよかった。
3年ほどつきあって結婚した従姉妹とその彼の、
日常を少し垣間見ることができた。
二人のごはんも、
二人の旅も、
二人の寝顔も、
ありふれた日常なんだけれど、
でも、写真にうつる顔は、
どんな表情も幸せに満ち足りていて、
みていてこっちまで暖かい気持ちになった。
式の帰りに私は、
先日卒業していった子どもからうけとった
卒業式での写真のことを思い出した。
ふだん、カメラを前にして妙にかまえてしまう私が、
その写真にうつった自分を自分で見て、
「ああ、これがわたし、そのもの。」
と思う顔だったのだ。
写真うつり
というけれど、
その写真うつりがよいとかわるいとか、
それはきっと自分が自分に対して持っている
イメージがそのままフィルターを通して映し出された写真が
自分にとって「良い写真」で、
そうではない場合が「悪い写真」なのかな?と思う。
子どもたちに囲まれて笑う私は、私そのものだった。
従姉妹の結婚式でのフォトショーといい、
卒業式での自分の写真といい、
写真に対してわかったことがある。
これは、撮られるプロであるモデルさんなんかには、
通用しない話かもしれないけれど、
少なくとも自分には、その時、その時に、
思っている心が、フィルターを通して、
写真に映し出されているのだと思う。
心からうれしい時には笑顔。
自信がないときには、かまえた顔。
楽しくないのに笑おうとしているときは、ゆがんだ顔。
ムリに笑おうとしているときには、
どうしたって顔が堅いのだ。
私は、恋人と写真をとるのがキライだった。
それは、きっと、自分を相手によく見せたかったからだ。
よく見せたいから、
写真に残す表情は、
笑顔をつくっても、
それは彼に見せるときの自然な顔ではなく写る。
だから、歴代の恋人は写真にうつった私の顔を、
「いつもと違う。」といい、
「写真うつりがわるい。」
と言っていたのだ。
今の彼は、もっと端的な言葉で言った。
「顔、つくんなきゃいいのに。」と。
彼は、初めて写メールを買ったときにわざと、
飲み物を飲んでいた無防備な私の横顔を撮った。
たぶん、カメラを構えたら、
また、私が顔をつくると思ったのだ。
何のために写真をとるのだろう?
プライベートであれば、
それは、記憶を記録するためだ。
その記憶は、生。
リアルな感情を残さなくて、どうする?
いつもきれいな記憶が本当にいいのか?
ちがう。
それはきっとちがう。
どんな記憶を残しておきたいかって、
それは、きっとありのままの記憶なんだ。
私は、それを覚えていたい。
私はもう、写真にうつることが嫌ではなくなった。
むしろ、自分の日常を写真に残しておきたいと思った。
記録に残してこなかった過去を後悔した。
私と彼の出会ってからの日々は、
頭の片隅に引き出しをつくって、
時々引っ張り出して思い出すけれど、
そのときそのときに、
きっと二人ともいろんな顔をしてきたはずなのだ。
それを残しておきたかった。
がっくり。
あーあ。
でも、過去はもう撮れないけれど、未来はある。
私は、彼と自分のいろんな顔を撮っていくつもり。
泣き顔も怒り顔も
笑い顔も喜びの顔も
全部、全部、
それは、きっと宝物の記録になるはず。