15's eyes
- 2003年06月02日(月) 大切な誰かの何かの死を受け止めること
昨日私のかわいがっていたペットが死んだ。
私は昨秋から両生類を飼っていた。
そもそもこの生き物は彼が飼っていて、
それがあまりにもかわいくて、
彼が私にプレゼントしてくれたものだった。
かわいいその子は、
私が深夜にマトリックスリローデッドの先行上映会に
出かけている最中に脱走して、
帰ってきたら、フローリングの床の上でへばっていた。
あーあ
あーあ
あーあ
あーあ!
あーあ…
生き物を飼うときに、
特に自分よりも弱い生き物を飼うときに
覚悟しなければいけないことがある。
それは、きっといつか自分が看取るということ
わかっていたけど。
そんなの物心ついた子どもだって
受け止めなくちゃいけない現実なんだけど。
私はいつからこんなに
たとえ小さな生き物の死にでさえ、
放心してしまうほど弱くなってしまったんだろう?
大切な人や、
大切な何かを失うっていったい、
どうして、どうしてこんなにやりきれなくって悲しいことなの?
ああ、こんなことになるのなら。
もっとかわいがっていれば。
もっと話をしていれば。
もっと何かをしてあげたかった。
もっと一緒にいたかった。
大事な何かを失うときに、
誰かや何かの死に直面したときに、
人はその誰かや何かの死によってわきあがる感情は、
どうして悔いることばかりなんだろう?
少なくても今この時を生きてる人にとっては、
未来があるから、
過去を振り返り、後悔する。
悔やんでしまうのは、
それはきっとそのものの死を
受け止める準備ができていないから。
たかだか両生類なのかもしれないけれど、
私や父にとっては、
我が家のかわいい小さな家族だったのだ。
あぁ
また家族が減った。
別れには永遠の別れと、そうじゃない別れがある。
永遠じゃない別れ、
どこかでその人やものが生きているなら、
その人やものの未来があるから、
悲しみはいつか、乗り越えられる。
私は怖い。
自分が大切にしている人やものを失うことが。
永遠に失ってしまうことが。
永遠に会えなくなってしまうということがどういうことかを
既に経験しているから。
だから怖い。
自分が大切にしているものが、
探しても探しても
世界中探しても
どんなにお金を払っても、
もうずっと永遠に自分の手に入らないものだなんて。
もう、思い出すことだけしかできないのだ。
このとき、
この世の中に唯一のものというすばらしさと恐ろしさを知った。
ここ数年で大事な何かを失い続けた私にとって、
かわいいペットの死は、
また失うことの怖さと虚しさを実感させた。
そして、同時に世の中に無数にいるかもしれない、
私の飼っていた生き物の仲間たちにも
一匹一匹の生命の存在があるんだという
ことを思い知らされた。
自分にとって、
大切なものを失うということも
きっと乗り越えるための何かだと信じたいけど、
今はただただ、悲しすぎるよ。
しょんぼり