まーくん的日常...まーくん

 

 

イージー・ゴーイング - 2002年04月28日(日)

昨日、「安易な人生」を歩んでいるU部長の話を書いた。
もしかしたら、読者のかたはそれを読んで、僕が「安易な人生を送ってはイカン!」と思っているように解釈されたかもしれない。

が、僕としては、安易な人生を送るも送らないも、「個人の自由」だと思っている。
現に、僕だって十分安易な人生を送っているという気がする。

いけないのは、ひとより安易な人生を送っているくせに、そのことを「自覚」していないということ、それだけなのである。

ところが、安易な人生を送っているひとに限って、自分はじゅうぶん一人前の、しっかりした人生を歩んでいるなどと勘違いしていたりする。

先日書いた、39才独身のK君などはいい例である。
彼は自分が安易な道を歩むことを、まるで恥じていない。

それどころか、彼は自分が人生を歩むうえで、いろいろと「近道」「ショートカット」を考えつけるのは、自分の頭の良さだとまで思っているふしがある。
だが、K君が考えつく程度のセコーいショートカットなら、たいていの人間は考えつくのであって、「それを実行したら、終わりやん」「情けないやん」と皆思うから、それを実行しないだけなのである。

そうはいうものの、K君も、内心忸怩たるものはいささかあるのかも知れない。
だが、それを見透かされるのが嫌だから、「ぼくはバカじゃない」などと、つまらない虚勢を張ってしまうのだと思う。
見るひとが見れば、お見通しなのだが。

こういう、なんでもラクな道を選択して、恬として恥じることのない「イージー・ゴーイング症候群」は、現在のわが国全体を覆っているような気がする。
最たる例が、かの、森義朗前首相である。

彼は大学進学にしても、就職にしても、何一つ自分の実力で勝負せず、すべてコネとハッタリと恫喝だけで乗り切ってきたような男である。
教養も知性もなく、押しの強さと厚顔無恥ぶりだけで、首相にまで登りつめた男。
そのくせ、自分はまるですべて実力で勝負してきたかのような、一人前の口を利く。

そう、イージー・ゴーイングな生き方自体に問題があるのではない。
自分はイージーな生き方しか出来なくて情けないという「恥じる心」が本人にあれば、全然オッケー。
イージー・ゴーイングのくせにそれを自覚しない、あるいはそれを内心恥じていたとしても、「安易で何が悪い」と居直る、そういう姿勢こそが問題なのだ。

先日、裏口入学斡旋詐欺で、一口5千万円で推定百人以上が金をだましとられたという事件があったが、あれなんか、被害者がバカなだけという気がする。
何でもカネでイージーに解決しようと考えるひとが多すぎるのだ。

日本全体がこういう風潮になってしまったのは、実はマスメディアにも大いなる責任がある。
現在日本に蔓延する、「念じていればすべて実現する」「望めば何でもかなう」風の安易な思想をちまたに流行らせたのも、「偽善のかたまり」である「マスメディア」にほかならない。

たとえば「101回目のプロポーズ」。
ああいう「つくりばなし」では、「不細工な男も、熱意さえあればいい女と結ばれる」というような、いささか現実味のないハッピーエンドにもっていかねばならないのはよく判るのだが、つねに受け手は「低レベル」で解釈する。
どんな魅力がないような人間でも、押しの一手で行きさえすれば、相手を落とせる、というふうに勘違いする人間がおおぜい出てきても不思議はない。
現に、相手の意向をまったく無視した「ストーキング行為」が、ここ十年で異常にふえたではないか。

いまだに「癒し」だの「なごみ」だのの、ワケわからんキーワードで偽善的な言説をふりまいて荒稼ぎをするマスメディア、少しは責任を感じろよ。

イージー・ゴーイング全盛という風潮、それはいいかえれば「世の中、すべてカネや」という「えげつない」思想と裏表の関係にある。
メーカーも流通もマスメディアも、「カネさえ出せば、あなたにも夢が買えます」と、一般大衆に安易な夢を見させているに過ぎない。
でも本音では大衆のことなんか、なんとも思っちゃいない。
「あんたがたの、カネをよこしなさい」、それだけ。
これはもう、「おためごかし」以外のなにものでもない。
もういいかげん、目覚めたほうがいいと思うよ、皆さん。


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