日記帳




2008年01月23日(水) 通勤近景・幾つ目か

冷たい雫が電車の窓硝子を濡らす。雨粒よりも大儀そうなその落下速度を見る限り、どうやらみぞれが降っているらしい。

子どもの頃からミニカーが好きだった。走らせて遊ぶわけでもなく、ただなんて綺麗なカタチなのだろうと見蕩れるのだ。しかし自分が大人になり、どういうわけだか(未だに何かの手違いだったのではないかと思うことがあるけれども)免許などというモノを手に入れてみて思うのは、本物の自動車とはいっかな分かり合える気がしない、ということだ。あれは、到底私に御しきれる代物ではない。

例えば、曲がるべき角を通り過ぎてしまった時のことを想像してみる。道を間違えたことに気付き、「あ」と思う。そして、いかにして軌道修正を計るかを思案する。しかし、その間にも時速数十キロの車体は何百メートルか進んでいるわけのだ。
「あ」と思い、逡巡している内にもはや引き返せないところまで行ってしまうに違いない。目に浮かぶようである。

快適で便利な乗り物であることは認めよう。あくまでも、運転席に座るのが私以外のひとであるならば、という条件付きで。もし私などに委ねられようものなら、あれは正しく走る凶器だ。もっとも、至極ご機嫌で走る世の自動車たちを眺めていても、同じように感じることはままある。その点、霧の中を走る車は、どこか趣を異にする。

一度、夜の霧に覆われた街を、電車の窓からずっと眺めていたことがある。
そろそろともしくはおどおどと進む車が点すフォグランプの群れは、見知らぬ森で迷子になった臆病な動物の光る目のようだった。心細げに、いっそいたいけにすら見えたものだ。

気付けばいつの間にかみぞれが止んでいる。降り止んだのか、もしくは前線の切れ目を越えたか。後者であるならば、と曇ったガラスを手の甲で拭いつつ考える。きっとどこか、通り過ぎてきたどこかに、ビーズカーテンを吊るしたかのように半透明の粒が降り注ぐ様を、傘も差さずに眺めることのできる場所があるのかもしれない。そして、そのカーテンの向こうでは今しも、そろそろともしくはおどおどと進む車が冷たい氷の粒に打たれているのかもしれない。

***

免許の更新に行かないとね、という話なのでした。





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