英国留学生活

2002年12月07日(土) フーコー

氷雨が降っていて、顔が痛いほどに寒かった。
ので、暖房を入れてみた。
桜井哲夫氏の「フーコー」を読んでいる。
内容的には「基礎の基礎」らしい。確かにわかりやすくかかれている。

フーコーは、「人間の終焉」という言葉で有名だが、
「知は力なり」を再度提唱したことでも知られている。
この言葉で有名なのは、もう一人フランシス・ベーコン。
現代美術のベーコンと血縁関係にある(らしい)、啓蒙思想家の一人。
この両者の「知」の違いは、ベーコンが普遍的な知を発見することを
指しているのに対して、フーコーが相対的な知を発展させることを
指している。
その結果の「知は力」にどういう差異があるのかは、これから調べる所。

「真理などない、あるのは様々な解釈のみである」
としたニーチェに影響を受けている。
そう言えば彼の決め台詞は、「神は死んだ」でしたね。
そして今度は、「人間が死んだ」わけか。
常識といわれているものを、再構築しようとしたのは、
彼の戦争経験と、彼がゲイであることと無縁ではないといわれている。
迫害された亡命スペイン人、ロマ人、そしてもちろんユダヤ人。
社会の中での、異端者への疑問が出発点になって、
「狂気の歴史」へと帰結していったらしい。
この本に、ブローデルが心酔していたのは知らなかった。

構造主義(ストラクチャリズム)者でもあり、ポスト・ストラクチャリズム
でもあるといわれているが、どの辺りの研究から移行しているのか、
いまいちよくわからない。
構造主義は、ソシュール辺りが発端となっている思想で、
サルトルらの主体性論の対になるもの。
インセスト・タブーの解明をしてみせたレヴィ・ストロースなどが、
有名だが、構造文化人類学は機能文化人類学の対極か?あれ?
とにかく、各個体が独自に決断できる(主体性論)わけではなく、
個人の決定には、底辺に流れる無意識の構造、歴史的文化的背景や、
社会的な規制によって、決定付けられるという。
わかりにくいな。
ユングの原型もこれに当たる、のだと思う。
某先生は、「Nnnnnn, no.」と言っていたけど。
トリックスターとか、老賢者とか、グレートマザーですね。

この構造主義を歴史学の方法論として応用したのが、
「知の考古学」
歴史の中の絶対的な主体が存在して、それが歴史の連続性を
保証する。と言う従来の考え方に対するアンチテーゼで、
その表層の人物、出来事の下部に存在する社会構造を
読み解くと言っているらしい。
そういうと簡単そうだが、実物はかなり難解なのだろう。
この作者(桜井氏)が挙げている例は幕末。
「坂本竜馬が傑物であっても、彼が明治維新を生み出したわけではない」
この辺は、「歴史は必然か、偶然か」と言う議論に掛かってくると、
思うのだけれど。
E.H.カーは、欧州の絶対王政の成立を例に挙げていて、
ドイツで絶対王政が生み出されなかったのは、歴代の王の短命という、
偶然の作用であると一見見えるが、険阻な国土を統治する
肉体的な負担が寿命を縮めた、という地政学的な必然がある、
とかなんとか、言っていたような気が。
「全ては、予定調和の裡」としたヘーゲルは、必然派ですね。

結局、帝国主義的な外圧とか権力構造の疲弊とかその他諸々の要因が、
明治維新をもたらしたのであって、個人の活躍はその時節にあったものに
過ぎない、というのが構造主義の考え方かな。
で、ポスト・構造主義になると、表層部分の価値も見直そう
という動きになって、個人の資質も見直す、ということなのだろうか?
例えば、最後の将軍が一橋慶喜じゃなくて、家茂が長生きしていたら、
大政奉還がスムーズに進まなくて、阿片戦争のような戦争を
どっかの国に起こされた挙句に植民地になっていたかもね、と。
歴史にIFはありえない、というのは常套句だけど。

以上、今日の読書メモでした。すごく、つまらん・・・。


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