ゼロの視点
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明日の夕方頃、いとこのI嬢がパリに到着して、4月1日までここに滞在する予定になっている。彼女にとっては初フランス。来仏する準備から不安などの相談にのっているうちに、ふと自分がはじめてパリに来たときの記憶が蘇ってきた。
私の初パリは、1989年2月。当時大学生だった私は、安く旅したい一心でアエロフロートを選んだ。まだソ連時代(笑)。親友のMとの旅行だったが、一人娘の海外旅行を必要以上に心配した我が母親は、成田まで見送りに来た。
チェックインなどを済まし、母親と別れ出国手続きをして、あとは飛行機にのるだけだった。しかし、いつまでたっても搭乗手続きが行われない。とはいえ初海外旅行で浮かれている私達は、そんなことも気にならず。さんざん待たされた挙句に、乗り込んだアエロフロート機は、荷物置き場が網棚だった。しかし、初心者というのは、タクマシイ。飛行機のことに詳しくないので、網棚もそれほど気にならなかった(笑)。
しかし、定刻を過ぎても依然出発せず、いつまでたっても点検作業と称して、ボロボロの機体を修繕している様子を、我が母親は見送りデッキから一部始終観察していた。眩暈がして、飛び立った後、アエロフロートの実態はウルトラ無心論者の我が母を、成田山にお参りに行かせてしまったほどだ(笑)。
さて、やっと軍用機並の急角度で離陸したアエロフロート機。ドロドロしたフルーツジュースもどきのサービスが終わり、ひとまずホッとしたところでアナウンスが入る。どうやらどこかに着陸するようだった・・・・・。
あまりにも機体がボロく、成田を飛び立って2時間弱で、すでにハバロフスクに緊急着陸した。ソビエト・・・・・・・・っ!!。掘っ立て小屋のような待合室で延々と待たされる私達。その間、一切の飲み物サービスはなし。そのおかげで、咽はカラカラ。外を眺めれば、無限大にありそうな凍えた大地があるばかり。そんな状況に、私達は妙に興奮していた。
何時間待たされたのか・・・・・?。ハッキリとは覚えていないが、少なくとも5時間以上はそこにいたと思う。その後、すこしだけマシになった機体に乗り換え、モスクワへ向かう。なんとも陰気臭い空港から、アウシュビッツに送り込むのか?、というようなバスに乗せられてモスクワの監禁ホテルで一泊した。
早朝、ブリュッセルへ向かうために、また空港へ戻り機内へ入ると、日本〜ハバロフスク間の機体とはまったく違う、かなりアエロフロートとしては新しいモノであることに、さすがの私達でも気付く(笑)。私達の隣に同席したのはベルギー在住のピアニストの日本人女性だった。
彼女は非常に親切で、海外初心者オーラを私達から感じ取った彼女は、ブリュッセルについてからも色々とガイドをしてくれた。恐らく、彼女は私達のことを放って置けなかったのだろう。ありがたいことだ。
結局私達は、ベルギー、フランス、イタリアの3カ国に一ヵ月半くらいかけて滞在したのだが、アエロフロートのショックとは違って、行き先々で親切な人に出会い、物凄いよい旅ができてしまった。怖いと感じる一瞬すらなかった。
出発前には、さんざん知人らにヨーロッパは怖いと脅され続け、そんなに怖いなら、自己防衛をしなければと、わざわざ上野のアメ横にジャックナイフまで買いに行ったほど(笑)。このジャックナイフは、モスクワの空港チェックにひっかかってしまった以外、出番はなかった。
一緒に旅行した親友Mは、今じゃ2男の母親業を、日本で立派にこなしている。旅行当時、まさかその10年後に、自分がパリに住むようになるとは夢にも思っていなかったが、それぞれが自分だけにしかできない人生を歩み、そして時々ふっと思い出す、みっともない過去の思い出を今でも共有できるということは、本当に嬉しいことだとつくづく思う今日この頃。
明日からパリ滞在のいとこI嬢にも、自分だけにしかできないオリジナルな思い出をここで作っていって欲しいものだ。
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