ゼロの視点
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ここ数日、時間をみつけては各国に住んでいる日本人の個人差サイトを覗いている。個人差があるのは当たり前とはいえ、在住国いかんでかなり戦争に対する意見が異なっているからだ。
殊に、バクダッド陥落からのアメリカ在住日本人サイト(決してすべてではないのを改めて記しておく)では、アメリカ人以上にアメリカ人になってしまって、完全にブッシュとその取り巻きが説く、“善と悪のウルトラ二元論”になっている人のを発見。
どこを支持するか?、という問題以前の、カルト宗教信者のような異様な頑なさと、絶対に自分が正しいと信じて疑わず、それを他人に“ごり押し”する姿勢が読み取れたので、少しばかり寒くなった。
以前ル・ペンが大統領選挙の最終決戦に残ったとき、フランスは集団ヒステリー状況に陥った。ま、確かにル・ペンが大統領になってしまうのは、個人的に嫌だったから、デモにも参加した。とはいえ、ただ、ただ、反対、反対、と言いつづけている人を見て、またはそれらの人に話し掛けてみて、具体的な個人の考えというのは、意外に掴めなかったことが多々あった。それも特に若い人達。
なぜ、どうして、といった問いかけ(自分自身に対しても)は最低限必要なんじゃないかな?!?!?!、と思うがどうだろうか?。絶対相手が悪いと思う場合、時に、その相手に自分の考えを投影させて、怨んでいるということが多々あるように・・・・。
議論というのが成り立たないとき、それは自分と違うものを許さないところから発生する。ある意味、私はそれをただ日本の会社で働くだけでも、薄気味悪いくらい味わっている。それが例え実際行為における爆撃行為ではなくとも、村八分などに代表される行為で取って代われる。
幸か不幸か、私は日本の企業に10年も勤務していないし、“私は私”とやっている私を、様々なカタチで型に押し込めようとしてきた人もいた。が、奇妙なことに、誰もあてにせず、もくもくと反旗を翻しつづける私に、徐々に陰での援護者がつき、とうとう最後には、上司を免職に追いやることができた。
これは、あくまでも個人的な体験。そして、これに対して、人にコメントも求める気もない。しかし、その当時は、本当に他者からの、または組織というものからの説明もできない“価値観の押し付け”が、吐き気がするほど嫌だった。
ロンドンから来ていた幼なじみのM嬢は、真面目なカトリック信者。で、私は無神論者。しかし私達の25年来の関係で一度も信仰に関するいさかいは発生してない。なぜなら、価値観の押し付けこそ、この世で一番怖いものはないと二人が昔から考えているからである。
逆に、同じカトリックでも、原理主義者とも思われる姑は、価値観の押し付けの天才。押し付けたがる人=他者をコントロールしたい人でしかない。自分の正義感と、他者の正義感の違いなどおかまいなし。それは、相手の文化を理解せず、自分の文化を押し付けるのをなんら変わりない。
自分以外のものに狭量という恐怖。それは、集団ヒステリーを引き起こさせるに充分だ。
叩くまではなんとかなったブッシュとその愉快な仲間達。じゃ、どうやって今度、イラクを復興させていくのかが見ものである。イスラム教の土地に、ブッシュ的解釈のプロテスタントなモノがどこまで根を植え付けられるのか?。また、その根は、さらなる仲違いのもととなるのか否か?。
今回の戦争に支持を掲げている日本を母国に持ち、アメリカに真っ向から反対するフランスに住み・・・・・。
じゃ、私はどうするか?。
そんなの決まっているじゃないですか・・・、いつどうなるかもわからないの昨今、毎日を楽しく生きるだけッス。映画“Le Pianiste”(戦場のピアニスト)の主人公じゃないが、体勢に反対する否かじゃなくて、実際その状況に陥ってしまえば、どうやって生き延びていくかしか考えられなくなってしまうのだろうから。
結論として、冒頭にあげたちょっと“私としては”寒かった人に対しては、またその人の観点として、反論しようと思わない。そういう人がいてもいて当然なんだとも思う。しかし、こういった考えが日に日に勢力を増してきて、世を制覇(押し付け)するようになってきたら・・・・・、と考えると非常に薄気味悪いわけであります。おしまい。
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