ゼロの視点
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| 2003年09月24日(水) |
死に目に会うということ |
私は、幸か不幸か、一度も“死に目に会う”という経験がない。
1967年の6月に生を受け、生まれてはじめての永遠の別れというものは、私の母方のおじいちゃん、だったはずだ・・・・・。でも、私はおじいちゃんの顔の見れば、火がついたように泣き叫び(なんでこんな拒絶反応を示したのだろう、おじいちゃんごめんなさい)、私の物心つくまえにおじいちゃんが亡くなってしまったので、何も覚えていない。
2度めは父の姉、つまり私のおばである。彼女は1973年の4月頃、たった一人で自宅で亡くなっていた。生涯を独身で過ごし、親族たりとも自宅に一度もあげることのなかった不思議なおば・・・・・。ゆえに、おばが亡くなったと聞かされても、当時6歳未満の私には、受け止めようがなかった。
そして、その3ヵ月後、私の父が亡くなった。とある日曜日の午後、突然父の具合が悪くなり、救急車で運ばれていったのだが、まさかそこまで重大ごとになるとは思っていなかった母の配慮により、私は近所の友人の家に一時的に預けられていた。そして、数時間後、何の説明もうけず、とりあえず父が運ばれた病院に連れていかれ、そこで冷たくなった父と対面。しかし、そこでそれ以上の劇的な感情というものは感じられなかった。ああ、なーーんだ、おとうさんはいつもように、病に伏しているのね、っていう感じの延長。
父の葬式は、信じられない程の人がやってきて、正直私は思いっきり飽きていた。私の横では恐らく母は神妙な顔をしていたのだろうが、私としては、父の年齢(1920年生まれ)に対して、あまりにも小さい子供を不憫に思って、あらゆる人が、当時はやっていた“りかちゃん”人形を持ってきてくれて、それで遊ぶのが必死だった・・・・・(汗)。
その次は、私が10歳くらいのころ。父の兄が亡くなった。父と同じような顔をした人だったが、だからといってそれほど執着していたわけではないので、母に連れられて、青山斎場であった葬式にクールに連れられていったことだけしか覚えていない。
そして、かなりたって、私が社会人になって少したった頃、おばあちゃん(私の母の母親)が痴呆の末亡くなった。今、思うと、私はおばあちゃんが亡くなったという時間は、その頃つきあっていた♂と、ラブホテルにいたはずだ・・・・・(滝汗)。家にも帰らず、そのまま前日と同じ格好で会社に出勤すると、“祖母が亡くなる”という連絡を受け、真っ青になって会社を早退、そして通夜の場所に駆けつけた。
さすがに、おばあちゃんの場合は、私のおばあちゃん、として認識はしていたものの、他の従妹達と比べて、一番なついていなかった私ゆえ、皆がワンワン泣いている横で、一人感情の発露も素直にできず、どうしていいのかまったくわからずその場を過ごした・・・・・、というのが今でも鮮明に覚えていること。
そして・・・・・・。長い時間をおいて、今回の愛犬マルチンの旅立ち。今回もまたまた死に目に会えずに終わってしまったが、はじめて“死”という告知を受けて、思いっきり泣いてしまった。もう、目は腫れるはで人前には出られない様態。
でも、今回も死に目に会っていないので、アタマのどこかでマルチンが亡くなったという事実を受け止めて泣くことはできても、その一方、どうそれを受け取っていいのかわからない私がいることは事実。
その逆で、私の母は、色々な人の死に目に会っている。自分の姉、義理の姉(つまりは私の父の姉、上記)の検死、夫をはじめとして、それら事実を知った若かりし日の私は、母のことを“見取り名人”とからかい、激しい母の怒りを買ったものだ。
そして、今思う・・・・・。またもや、マルチンは、母の腕の中で死んでいった・・・・、ということ。もちろん、私がすでに家を出てしまった今まで、母はマルチンとずっと一対一で暮らしてきていた。それだけ密着した生活を送り、愛情を注ぎ、その相手が自分の腕の中で静かに息を引き取っていくという衝撃。
正直、私には想像できない。しかし、ある意味では、母は生と死の狭間を言葉を超えて体感しているわけだ。ゆえにショックも大きいが、心のどこかで整理がつくのかもしれない。それでも、まだマルチンが亡くなって数日しか経っていないので、母の精神的混乱は激しい。とはいえ、だ・・・・・・。
ここに、近親者の死、ということに対する激しい温度差が私と母との間にはある。そう易々と越えられるものではないな・・・、と、あらためて思う。どちらがいいのか、さっぱりわからないが、だ。ま、そういう問題以前なのだが・・・・。
だが、今回一つだけ、ようやく母の立場がわかったような気がした。思うに、私の父、つまりは母の夫が亡くなった時、母はそれをたいそう悲しいとお思ったとはいえ、自分でその感情を味わい尽くすまでもなく、残された自分と 幼い子供(つまりは私)と、どうやって生きていくか?、ということに考えを集中させなくていけなかっただろう、ということ。
時を経て、どうやらこの役目は交代したようだ・・・・・・。現在、マルチンの死を自分でも受け止めていいのかわからずも、その一方でとうとう一人ぼっちで残されてしまった母の精神的ケアを考えると、易々と感傷には浸っていられない、という私の実状。そして、仕事だ、なんだと色々とやることがありすぎて、それを最低限こなしているだけで、哀しさとはまったく違う次元にいざるを得ない。
私が何故、今ごろになってよく母親のことを考えるか?!?!?!?!。それは、今まで散々好き勝手にやってきた、という罪悪感から。今まで存分に親孝行だった人間は、こんな感じで親のことを考えることはないような気がする。
ゆえに、今、最低限母親にできることは何か?!?!?!、と執拗に考えてしまうところがある。そうじゃないと、なにもできずにこのまま母に死なれてしまったら、一生“私がうかばれないっ”というもの。
今まで、私の分まで散々死に目に会うという役目を一人で担ってきた母。今私が提案できるのは、彼女が留まってきた(留まるざるを得なかった)場所から、一時的にも解放させること。例えば、今まで17年と8ヶ月マルチンの世話をし、散歩をし、ゆえに旅行という自由さへなかった母に、はじめてパリに呼び寄せてみよう、ということである。
今、マルチンの死後数日で混乱している母とはいえ、毎日説得を続け、12月初旬には、パリになんとしても呼び寄せて、実の娘の現在の生活を披露するだけでも、また彼女に新しい視点を与えられるのではないか?、という期待・・・・。そして、それを通して、実際には、想像以上にパリと日本というのが、そんなに遠くないということを気楽にわかってもらいたい、という私のエゴもあるわけだ。
さて、どうなることやら・・・・・・・・・。
追伸、メールを送ってくれた方、そして掲示板に書き込みをしてくれた方、今週末には、なんとか余裕ができると思うので、申し訳ないですが、お待ちくださいませ・・・・・。たくさんの方の、マルチンの死への励まし等、本当に激しく感動させてもらっている、ゼロであります。メルシー・ボクー。
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