ゼロの視点
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どうしても、人を我が家に招かなくてはならない状況に陥ったので、朝から大掃除。といっても、居間だけなのだが、これがとんでもない大仕事。これだけ形容もできないほど荒れてると、引越しに近いほどの労働をせざるを得ない。
当初は、夕方に招待客がやってきて、とりあえず我が家でアペリティフでも楽しんで、近所のレストランへでも出向く、というつもりだったが、ここまで髪を振り乱して我ながらきれいになったサロンをマジマジと見ているうちに、ええいっ、この際、アペリティフの後のディナーもわしが用意したるっ!!、という気持ちになってしまった。
私の本が出来上がった暁に、序文を書いてくれるPADが現在、自分の仕事の件でパリに来ており、彼のわずかな自由時間を削って我が家に来てくれる、というのに、これ以上怠惰なことは言ってられない、というわけだ。
そして、ロンドン在住の友人M氏が、日本から訪れている彼の母と叔母を連れて、パリにやってきており、やはり、彼らも本日の晩しか日程が空いていないという。
PADは某通信社の記者として8年日本(バブル経済最高潮の時期からその崩壊まで)に滞在。それプラス3人の日本人客、ということで、本日は特別出血大サービスで日本料理オンリー。久しぶりにキレイなテーブルセッティングというのをやったきたする(笑)。
夫は、本音では私にディナーを用意してもらいたかったのだが、掃除を頼んだ上(だいたいが夫のゴミ)に、それに大幅に時間を取られ、恐らく不機嫌になっている予想される私に対して、それ以上はあえて頼めなかった。が、家に戻ってくると、すっかりディナーの用意が、見違えるほどキレイになったサロンにしてあるのを発見して、口をあんぐりあけている。
見たか!!。やる時は、やるのだ、ウハハハハ。
ところで、夫からしょっちゅう、PADは日本語を話すことができると聞いていたが、今まで一度も私に対しては日本語で話してくれたことがなかった。が、今回、S氏の母とその妹が日本語以外はアウト、ということを知り、PADが“たいして話せませんが・・・”と日本人のように謙遜しながら、日本語で会話していくのを見て、ビックリ。
確かに、“てにおは”はちょっと怪しいが、ちゃんと日本語を理解してないと不可能な会話に充分ついてこられるのだ。
S氏らは大阪出身なのだが、その話を聞いていたPADが突然、
PAD「1995年の1月に私は大阪から神戸まで歩きました」
私「ってことは、もしかして?。」
PAD「そう、例のアレですよ、アレ」
私「阪神大震災?。」
PAD「そう」
PADは、1995年の1月16日の夜にパリから大阪に到着。そして1月17日早朝の悲劇に見舞われたとのこと。そのままパリに引き返すこともできたが、記者魂もあり、交通網が完全にアウトになった大阪から神戸まで歩き、その後10日以上神戸市役所で寝泊りしながら、取材をしていたそうだ・・・・・。
それまで微震程度の地震を2度ほど経験したことがあるだけだったPADにとって、滞在期間立て続けに発生する余震に激しく驚いていたとのこと。また貧富の差なども、マジマジと感じ、この体験は決して簡単に語れることではない・・・・・、と神妙な顔で延べていた。
残念ながら、これについて深く彼にそれ以上聞きだすことができなかった。なぜなら、日本語オンリーになってしまうと、夫がわからない。またフランス語だけになると、S氏たちがわからない。そして、英語オンリーになると、S氏の母&叔母がわからない、というように、いちいち誰かが訳したりしているうちに、そっちに時間が取られて、しらない間に、どんどん違う話になっていってしまうからだ・・・・・。
さて、あまりにもキレイになった我が家のサロン。それ以外の部屋が“あかずの間”になったことは言うまでもない・・・・・・・・。
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