ゼロの視点
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2009年02月24日(火) |
異国で生活するということ |
子供には幼稚園や学校、お父さんには会社、ママにはカルチャーセンター、そして老人にはデイサービスといった感じで、夫が日本に滞在しているあいだは、自治体ボランティアがやっている日本語教室へ通ってもらっていた。
私は、フランスでの自治体無料フランス語教室というものへ通ったことがある。学びにくる人の大半は、ちょっと浅黒いくらいから、真っ黒に日焼けした方々で、その次には、黄色く焼けた人とかも結構いたが、真っ白な人たちというのは、意外と少ないものだった。いたとしても、ロシア系がちょっとというくらいだったか・・・?!?!?。
夫に通わせた日本語教室も、気がつけば東南アジア系の人や、ぱっと見は日本人と区別がつかないような中国系や韓国系の人などが多く、白人系はあまりたくさんいなかった。が、夫は北京語を話すので、これはこれで、彼にとってはいい機会。
無料うんぬんというより、こういうところへ、敢えて足を運ぶことで、自分がいる社会の裏がみえてくるゆえに、実に面白いと私は思っている。また、私はフランスで外国人として生活しているとはいえ、日本に住む外国人事情については、お世辞にも詳しいとはいえないことに、あらためて気づく始末。
授業が終わった夫を迎えに行った時、教室を出たところで夫とあーだこーだフランス語でべらべら話していた時のこと。誰もフランス語なんてわかりゃしないと思っていたのが間違いで、久々にフランス語を聞いて、つい嬉しくなって私たちに話しかけてきたのは、セネガル人。
中国で長いこと仕事をしているうちに、日本人女性と知り合った後、九州に二人で移住し5年。こっちには数ヶ月前にやってきたばかりという彼。日本人の妻との共通言語は中国語で、彼自身、日本語ははあまりできないという。
日本人の友人もつくれず、妻とのコミュニケーションにも限度があり、気がつけばどんどん隙間があいてきてしまっているようなことを語ってくれた彼。このご時勢、仕事もなかなかみつからないとのことで、みるからに元気がないセネガル人。
彼はもっと私たちと話をしていたそうだったが、あいにく、私たちは他の用事がつまっていたので、「また今度!」と言って別れたものの、次に夫が日本語教室に戻ったときには、彼の姿はなかったらしい・・・・。
何の変哲のない、日本人ばかりいそうな住宅街の中にあるマクドナ○ドで、無線LANに接続して、夫と二人で各自のパソコンに向かって、100円コーヒーで粘っていた時のこと。気がついたら、若いインド人男性が私たちと友達になりたそうに笑いかけている。
こんな場所で、非日本人とコンタクトとるなど、まったく考えたこともなかった私だったが、夫と一緒にいると、どうもこういうことが頻繁に発生しだすのだ。難しすぎて、私には覚えられない名前の、最先端の科学技術を研究するために日本に留学しているという彼。
思い切り文系のクセして、なぜかインド人留学生の研究分野について、ちょっとだけ聞きかじり情報をもっていた夫が、英語で話し始めると、みるみるインド人の顔が嬉しそうに輝いていく。これをみて、ああ、この人ももしかして、日本で孤独だった?、等と思ってしまった私。
「日本語なんて、主語からはじまって最後の最後につく動詞までをちゃんときいてないと、肯定文なのか否定文なのかもわからない、とんでもない言語、本当に難しくて頭にくるっ!」等と、夫がこれまた嬉しそうに語りだすと、インド人も「そうだ、そうだ♪」と、悩みを共感する他者が出現して楽しそうに応答。
この時も、インド人はもっと私たちと話したりしていたかったようだが、あいにく、時間制限つきで日本にいるだけの身、用事がつまっていたので、これまたここでバイバイ。私たちは名刺を持参しておらず、彼が連絡くださいと名刺を夫にあげたのだが、ADHD気味な夫がきちんと保管できるわけもなく、見事紛失。ゆえに、以後、このインド人とは連絡が取れていない。
フランス在住の日本人連中とつるんで、フランス人の悪口言ったり、フランス語のことぼろくそ言ったりして憂さを晴らすことを、私もよくやってるが、日本に住む外国人も、日本語や文化の壁にぶつかり悩んだり、苦しんでいる姿を目の当たりにすると、それはそれで感慨深いものだった。
外国人にはなかなか入り込みにくい日本独特の通勤風景と、ボジョレ・ヌーボーの広告
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