ゼロの視点
DiaryINDEXpastwill


2009年03月10日(火) 残された妻のゆくえ

 昨年の2008年3月5日に、夫が敬愛する友人の作家JPが亡くなった。享年88歳。彼の持病であった糖尿病が悪化し、足先が腐り始めたのをきかっけに入院した彼。誰もが予想していた通り、残念ながらも、彼が元気に退院することはなく、入院から2ヶ月ちょっとで彼は彼岸へ旅立っていった。

 彼の死後、妻Mが残された。が、彼女は10年弱前の交通事故で脳を損傷しており、軽度の認知症状態。また、この夫妻には二人の子供がいるのだが、故JPには法的に認知されていない。

 そんなこともあって、彼が住んでいた城のような家は、彼の死を境に、財産や金目のモノを巧妙に狙う人が足繁く通う場所となっていった。偉大な作家としての素晴らしい業績の影で、ひとりの父、ひとりの夫としてちょっと甲斐性足りなかったか?、ということも死後明らかになってきた。

 日本では、認知症高齢者を狙った悪徳リフォーム詐欺などが流行っていたが、所詮これと一緒。妻Mが家に来てくれた人に、ホイホイと高価なオブジェなどを譲ってしまうのを狙って、本当にすごい数の人間が出入りした模様。JPの死のたった3ヵ月後に、彼らの家を訪れた私たちは、家の中がほぼ空っぽになってしまっているのを目の当たりにし、腰が抜けそうなほどビックリしたものだった。

 その上、アカの他人以上に怖い存在といえば、身内の人間。Mの妹の夫、つまりはMにとっての義理の弟MMというのが、Mの世話をするという名目で一ヶ月以上、Mの家に住み込みでやってきていたのだが、このMMが実に胡散臭い人間だった。

 南仏で古美術商をやっているMM.。連日Mのところへやってきては、故JPが残していったオブジェや本などについてコメントしていくのを、逐一ノートにとってその価値を計算。そして皆が寝静まった夜に、少しずつ少しずつ価値のありそうなものを、自分のトラックに積み込み、まんまとお宝ゲット。

 子供たちは、法的に認知されてなかったことと、それを踏まえた上での財産分与について、故JPが生前きちんとしておかなかったこともあり、なかなか手も出せないず・・・。こうして故JP家は、完全無法地帯になっていたのだった。

 そしてその翌7月の末に、未亡人となった妻Mは長年住んだ城のような家を売り払い、それを元金に老人ホームでの生活をはじめた。

 夫婦揃って元気だった頃は、夫の著述業のアシスタント業もバリバリこなしていた妻M。パソコンもなかった時代は、夫が書きなぐった原稿をすべて綺麗にタイプし、校正もやっていたらしい。家に出入りする人の顔と名前は一発で覚えた上、ものすごく人当たりがいい女性として評判だったらしい。

 私たちは、彼らの晩年しか知らなかったが、妻Mと故JPが、なんでもないふとした瞬間に、互いの愛を確かめるかのように見つめあったりする、実にほほえましい光景に何度も遭遇したものだった。

 また、私たちは用事で参加できなかったJPの葬式でのこと。JPが入った棺が積み込まれ、いよいよ霊柩車のドアが閉められた時、妻Mが亡き夫に最後の別れを告げるかのように、《バイバイ》といいながら、ドアの扉を、やさしく、いとおしそうに撫でていたMの姿に、不覚にも涙腺が緩んだ参列者がいたらしい。

 とにかく、妻Mのすべてから、彼女がいかに故JPを愛していたかというのがひしひしと伝わってきて、その彼女の圧倒的でまっすぐな愛には、ただただ驚嘆させらることが多かった。

 今思えば、《JPのいなくなったこの世》自体に未練も何もなくしていたのかもしれないM。だからこそ、連日自宅に遺品をたかりに来る人間と戦うことすら放棄していたのかもしれない。いつかまた、JPと再会できる日を願っていたと想像できる彼女は、いつも遠い目をしていたように思う。

 そして、本日、Mは亡き夫JPの元へ旅立っていった。夫の一周忌が無事に過ぎるのを見届けるかのように、3月10日未明に亡くなった彼女。

 実は彼女、昨年末に脳に腫瘍が発見されて手術もできない状態で、入院していた。そして先週、昏睡状態になる直前に、娘Fに向かって《もう、私はお父さんのところに行くことにしたから、幸せなのよ》と、いい残していたとのことだった。


在りし日の、JPとMのほほえましくも愛し合っていた姿を偲び、心から冥福をお祈り申し上げます。



              JPがすでに眠る墓


Zero |BBSHomePage

My追加