流れる水の中に...雨音

 

 

「朝のリレー」 - 2003年10月06日(月)



  カムチャッカの若者が
  きりんの夢を見ているとき
  
  メキシコの娘は
  朝もやの中でバスを待っている



ある夏の朝 何気なくテレビをみていると
まだ明けたばかりの曇りがちな 
空の映像を背景に この詩が映し出された。

私は全ての動きをとめて この画面に引き込まれた。



  ニューヨークの少女が
  ほほえみながら寝返りをうつとき
  
  ローマの少年は
  柱頭を染める朝陽にウインクする

  この地球では
  いつもどこかで朝がはじまっている


  ぼくらは朝をリレーするのだ
  経度から経度へと
  そうしていわば交替で地球を守る

  眠る前のひととき耳をすますと
  どこか遠くで目覚時計のベルが鳴っている

  それはあなたの送った朝を
  誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ



単純な言い方だけれども 「打ちのめされた」気がした。
誰がかいたのか知れぬ詩ではあったけれど
地球が自転しながら 朝をリレーしてゆく様を
なんとも詩的に なんとも映像的に
言葉で綴っているのだろうかと感動した。
今まさにこの時も そして夜眠りにつく時にも
いつも何処かで目覚まし時計のベルが鳴っている。
そしてそれを
「誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ」と
リレーのバトンのように比喩して締めくくる。


この詩は一時期 中学校の教科書に取り上げられた詩であったらしい。
意図としてはこの地球上の東西南北、
世界中は一つの星であり 地球を共同体として人類の連帯感の大切さをうたったものであるらしい。 
  

私は 詩を読み説くというのはナンセンスだと感じる。
そこに作者の意図があろうとなかろうと
それはそれとして
まずは「感覚」で楽しむことができれば
それで良いのだと思う。

絵画にしても 神話や聖書を軸とした古い絵画も 
意図や象徴を読み説く面白さはあるだろうけど
私は 頭で感じる感動よりも 心に沸き上がる感動を
楽しみたいと思う。


この「朝のリレー」という詩を
テーマの押し付けである という批評があることを知ったが
それはそれとして
そのようなテーマを考えるよりも
読者に与える感動が 先にダイレクトに
胸にズトンと響いたならば
詩として 表現としいて
成功しているのではないかなあと思う。

ということで 私はこの詩が谷川俊太郎氏のもので
あると知ったのは 昨夜のことである。
 

谷川俊太郎「朝のリレー」


...




My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

Mail