みちる草紙

2001年10月27日(土) 南泉斬猫

三島由紀夫 著 《金閣寺》より 以下抜粋

“「あの公案はね、あれは人の一生に、いろんな風に形を変えて、
 何度もあらわれるものなんだ。あれは気味のわるい公案だよ。
 人生の曲り角で会うたびに、同じ公案の、姿も意味も変わっているのさ。
 (中略) 
 何故って、美は誰にでも身を委せるが、誰のものでもないからだ。
 美というものは、そうだ、何と云ったらいいか、虫歯のようなものなんだ。
 それは舌にさわり、引っかかり、痛み、自分の存在を主張する。
 とうとう痛みにたえられなくなって、歯医者に抜いてもらう。
 血まみれの小さな茶いろの汚れた歯を自分の掌にのせてみて、
 人はこう言わないだろうか。
 『これか?こんなものだったのか?俺に痛みを与え、
 俺にたえずその存在を思いわずらわせ、そうして俺の内部に
 頑固に根を張っていたものは、今では死んだ物質にすぎぬ。
 しかしあれとこれとは本当に同じものだろうか?
 もしこれがもともと俺の外部存在であったのなら、どうして、
 いかなる因縁によって、俺の内部に結びつき、
 俺の痛みの根源となりえたのか?こいつの存在の根拠は何か?
 その根拠は俺の内部にあったのか?それともそれ自体にあったのか?
 それにしても、俺から抜きとられて俺の掌の上にあるこいつは、
 これは絶対に別物だ。断じてあれじゃあない』”

何もこのくだりが、先日親不知を抜いたから心に残った訳ではない。
引っこ抜かれてゴロンと転がる歯を「畜生、こいつだったのか〜!!」
と憎々しく見たのは確かだから、それもちょっとはあるけど…(~ヘ~;)

ここで「美」を論った一つの解釈は、確かに置き換えの利く教訓である。
そう、身内を灼き焦がす煩悩という名の憑き物も、咽喉元を過ぎてしまえば
炭化し縮んだ石ころ同然に、ただの無意味になり下がってしまうのだ。
けれど、観念にがんじがらめとなり、実体との境界をわざと定めないまま
虚空を掴む足掻きを、分かっていながら延々止めずにいる自分。

秋風に身震いしながら、アタシも今、お肌の…いや人生の
曲り角にあることを、いやでも意識してしまう所為だろうか。


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