三島由紀夫 著 《金閣寺》より 以下抜粋
“「あの公案はね、あれは人の一生に、いろんな風に形を変えて、 何度もあらわれるものなんだ。あれは気味のわるい公案だよ。 人生の曲り角で会うたびに、同じ公案の、姿も意味も変わっているのさ。 (中略) 何故って、美は誰にでも身を委せるが、誰のものでもないからだ。 美というものは、そうだ、何と云ったらいいか、虫歯のようなものなんだ。 それは舌にさわり、引っかかり、痛み、自分の存在を主張する。 とうとう痛みにたえられなくなって、歯医者に抜いてもらう。 血まみれの小さな茶いろの汚れた歯を自分の掌にのせてみて、 人はこう言わないだろうか。 『これか?こんなものだったのか?俺に痛みを与え、 俺にたえずその存在を思いわずらわせ、そうして俺の内部に 頑固に根を張っていたものは、今では死んだ物質にすぎぬ。 しかしあれとこれとは本当に同じものだろうか? もしこれがもともと俺の外部存在であったのなら、どうして、 いかなる因縁によって、俺の内部に結びつき、 俺の痛みの根源となりえたのか?こいつの存在の根拠は何か? その根拠は俺の内部にあったのか?それともそれ自体にあったのか? それにしても、俺から抜きとられて俺の掌の上にあるこいつは、 これは絶対に別物だ。断じてあれじゃあない』”
何もこのくだりが、先日親不知を抜いたから心に残った訳ではない。 引っこ抜かれてゴロンと転がる歯を「畜生、こいつだったのか〜!!」 と憎々しく見たのは確かだから、それもちょっとはあるけど…(~ヘ~;)
ここで「美」を論った一つの解釈は、確かに置き換えの利く教訓である。 そう、身内を灼き焦がす煩悩という名の憑き物も、咽喉元を過ぎてしまえば 炭化し縮んだ石ころ同然に、ただの無意味になり下がってしまうのだ。 けれど、観念にがんじがらめとなり、実体との境界をわざと定めないまま 虚空を掴む足掻きを、分かっていながら延々止めずにいる自分。
秋風に身震いしながら、アタシも今、お肌の…いや人生の 曲り角にあることを、いやでも意識してしまう所為だろうか。
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