毎年、人知れず過ぎることを願うばかりの、今日は自分の生まれた日である。
日中は台風と錯覚するほど凄まじい暴風が吹き荒れ、否応なく部屋に足止めされたが 昨夜、所謂椿事が起こったお陰で、何もない誕生日にならずに済んだ。 去年の同じ日には、どうやって過ごしたのか思い出すのが困難だが、今年この日は 深夜の奇妙な出来事とともに、何年経っても記憶から消えることはないだろう。
期待は常に必然と同義であることを願って止まないのが人である。 例えば。来る、来ない、来る、来ない… の花占いではないが 「来て欲しい」「来ないかも知れない」「必ず来る」「来ないのは単なる偶然」 千々に乱れる祈りに似た想い即ち期待を、持続させるにはタフでなければならぬ。 そこで、持ち堪える体力を補うために、様々の方便を捻り出そうと試みるのである。
「来るかも知れない」「絶対来ない」「偶然来たら」「来ないに決まっている」 期待はしないに越したことはないのだ。来ようが来るまいが、こればかりは 勘の及ぶ領域でもない。予感など悪い方が不思議とよく当たる。それならば。 友の予言めいた忠告にも耳を貸さず、負の予想に意固地に信をおいておきさえすれば 期待を剥ぎ取られた創痕が癒えるのも早いだろうという、ネガティヴメソッドを 知らず知らず編み出し、モルヒネ代わりに用いていたのであった。
ところが、予想に反する幸運に際しては相乗効果が得られるとは限らず 喜びは時に不可解な衝撃によって、相殺されてしまうこともある。 タナボタは無論嬉しいには違いないが、納める重箱が見当たらなかったり 空腹を代品で紛らわせている最中だったりして、せっかくの幸運を 周到に迎え入れられない無防備さが、本来の美味を大きく損なう結果ともなる。
甘受する悲しみは半分で済むが、享受する喜びもやはり半減してしまう。 切なる願いが叶えば喜びも倍以上で、期待を裏切られれば悲しみは無限である。 攻防と鬩ぎ合いの末導かれたハイリスクハイリターンの法則が、あたかも フラクタル現象のように、既にそこにも備わっていた。 「傷つくのを怖がってちゃ何も出来ない」「安定よりスリル」「夢を諦めないで」 こんな手垢のついた言い回しも、俄然リアリティをおびてくるものだ。
文字数オーバーで、ハプニングを具体的に述べることが出来なくなった。 今年の誕生日は、そんなこんなでありました。おしまい(*^o^*) (訳わからん)
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