みちる草紙

2002年03月21日(木) 世迷い言

毎年、人知れず過ぎることを願うばかりの、今日は自分の生まれた日である。

日中は台風と錯覚するほど凄まじい暴風が吹き荒れ、否応なく部屋に足止めされたが
昨夜、所謂椿事が起こったお陰で、何もない誕生日にならずに済んだ。
去年の同じ日には、どうやって過ごしたのか思い出すのが困難だが、今年この日は
深夜の奇妙な出来事とともに、何年経っても記憶から消えることはないだろう。

期待は常に必然と同義であることを願って止まないのが人である。
例えば。来る、来ない、来る、来ない… の花占いではないが
「来て欲しい」「来ないかも知れない」「必ず来る」「来ないのは単なる偶然」
千々に乱れる祈りに似た想い即ち期待を、持続させるにはタフでなければならぬ。
そこで、持ち堪える体力を補うために、様々の方便を捻り出そうと試みるのである。

「来るかも知れない」「絶対来ない」「偶然来たら」「来ないに決まっている」
期待はしないに越したことはないのだ。来ようが来るまいが、こればかりは
勘の及ぶ領域でもない。予感など悪い方が不思議とよく当たる。それならば。
友の予言めいた忠告にも耳を貸さず、負の予想に意固地に信をおいておきさえすれば
期待を剥ぎ取られた創痕が癒えるのも早いだろうという、ネガティヴメソッドを
知らず知らず編み出し、モルヒネ代わりに用いていたのであった。

ところが、予想に反する幸運に際しては相乗効果が得られるとは限らず
喜びは時に不可解な衝撃によって、相殺されてしまうこともある。
タナボタは無論嬉しいには違いないが、納める重箱が見当たらなかったり
空腹を代品で紛らわせている最中だったりして、せっかくの幸運を
周到に迎え入れられない無防備さが、本来の美味を大きく損なう結果ともなる。

甘受する悲しみは半分で済むが、享受する喜びもやはり半減してしまう。
切なる願いが叶えば喜びも倍以上で、期待を裏切られれば悲しみは無限である。
攻防と鬩ぎ合いの末導かれたハイリスクハイリターンの法則が、あたかも
フラクタル現象のように、既にそこにも備わっていた。
「傷つくのを怖がってちゃ何も出来ない」「安定よりスリル」「夢を諦めないで」
こんな手垢のついた言い回しも、俄然リアリティをおびてくるものだ。

文字数オーバーで、ハプニングを具体的に述べることが出来なくなった。
今年の誕生日は、そんなこんなでありました。おしまい(*^o^*)
(訳わからん)


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