みちる草紙

2004年11月09日(火) 神の御許で

今日は、父方の祖父の命日であった。プロテスタントの場合、召天記念と呼ぶらしい。

あれは高校生の時。それは母方の従弟の誕生から、僅か数日後のこと。
危篤の知らせを受け、数年ぶりに見舞った祖父は病床でようよう虫の息。
痩せさらばえ、生き腐れの魚のような濁った目を、虚ろにこちらに向けていた。
『めいこは幾つになった…』「15です」
かわした会話はそれっきり。祖父が死んだのは、その二日後であった。
生まれて初めて死者のお骨を拾う。今も記憶に残る、ピンクや緑に染まった大腿骨の断面。

若い頃から病気がちで入退院を繰り返し、晩年はずっと病院のベッドで過ごした人だった。
祖父は妻を離縁したあと後妻を迎え、困窮をよそに5人もの子供をなした。
先妻の子であるアタシの父は、働けない祖父の代わりに成人するまで一家の生活を支えた。
継子いじめとは俗に言うが、更に実父に庇ってもらえない情けなさを、父は表に出すことなく
一介の下男の如く自分を遇する家族のために高校を中退して働き、そして
自分の婚期を遅らせて、弟妹の最後の一人の就職の世話までしたのであった。
この人の好い父が、隣町に住む母と見合い結婚し、漸く自分の所帯を持って
実家を出られたのは、既に30の声を聞いてからである。

アタシはこの祖父に、父同様、孫として可愛がってもらった記憶がない。
父方の親類の集まりでも、叔父や叔母たちは、異母兄の子である幼いアタシを
子供ながら勘付くほどに分け隔て、実によそよそしく辛く当たったものだ。
向う気の強い母が、父の親族全員から悉く敬遠された所為もあったのだろう。
父の気の毒な生い立ちを、母からツブサに聞かされていたアタシは、大人になったら
温順しい父に代わって、この恩知らずの親類たちに言いたい放題のことを言ってやり
きっと思い知らせてやるんだと、自分の幼さを呪い歯噛みした。
その機会はどうやら、巡ってきそうもないのだけれど。

祖父の死から20年。従姉妹たちは地元で次々に結婚し、親となっている。
恐らく、祖父の法事(ミサ?)に一度も参列したことがないのも、墓参したことがないのも
また一度として手を合わせたことすらないのも、故郷を離れたアタシくらいのものであろう。
母親似の故か、生き仏のような父とは違い、愛憎濃く生まれついたものかも知れない。
十字架を刻んだ御影石の墓石を見たのは、葬儀の日が最初で最後である。

後妻を重んじ、実の息子に苦労はかけ通しにかけても労いの言葉ひとつかけるでなく
それでいながら、キリストの敬虔な信徒として天に召されたという祖父。
彼は罰当たりな孫を、神の御許からどう見ているだろうか。


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