マキュキュのからくり日記
マキュキュ


 (日記) 田中監督にお会いしてきた。& その他。


やっと先週末は雨も見ず、金、土の両日で、多少は平日のバカ暇さを盛り返せるかと思いきや、連日のオリンピック熱でここ10日ほど客足はサッパリ、ションボリ、スッカリ、・・・・・・。
何かが良けりゃ何かが邪魔をするといった崖っぷちの真夏を迎えているからくり箱でございます。

考えてみると、生まれ月である8月は毎年鬼門月だなぁ・・・・・・。
1年の内で一番生きていたくなくなるのが、世間が一番の楽しみにしている盆と正月だ。
皆が海や山やと楽しい時期に常に我慢我慢で、最も辛い時期を迎えざるを得ないという我が身を振り返ると、ホント涙もチョチョギレル・・・・・・。

自分の生まれ月がいつも良くないと言うことは、やはり、アタシは「生まれてきてごめんなさい人間」なのかもしれないな・・・・・・。
そんなお財布事情が最も苦しかった日曜日、ぇみちんの新車に乗せてもらい、諏訪まで監督に会いに行ってきた。
生憎チョンマゲは膝の故障で歩けないと言うことでお留守番。

8時半ごろ自宅を出、諏訪まで楽しくドライブをし、上諏訪駅の改札口で田中氏と待ち合わせ、「ムーランルージュの青春」の上映会を行うビルにある喫茶店で1時間ほど3人でいろいろなお話をした。
アタシもぇみも、最初は結構ウコチコチになっていて、「どうしよう・・・。何を話せばよいのだろう・・・」
『わぁ、やばい!!だんだん時間が迫ってくるに付け緊張してきた!!!』等、まるで有名人に初めて会う高校生のようにソワソワ、ドキドキしていたのだが、思った以上に田中氏が気さくな人なのでずいぶん助かった・・・。
田中氏はいかにも映画作りを楽しんで居られる方・・・・・・と言う印象で、お話もとても上手で面白い。

お話をしているうちに、ネット内での検索サイトの情報は如何に曖昧か・・・・・・ということが解った。
祖母の亡くなった年も皆バラバラ・・・・・・。
そして祖父の「呑海」に至っては、亡くなった年さえ結局わからずじまいだった。
ただ、祖母はかなり「恋多き女」であった事は確かだった。
呑海さんと水町さんとの出逢いや別れ。
呑海さんの破茶滅茶ぶりやら怪人ぶり等、楽しいお話をたくさん聴かせていただいた。

祖母はもともと育ちのいい人らしく、女学校時代に呑海さんに半ば拉致されるように連れ回され、女優にさせられ、その間、13〜14歳くらいの時に初めて伯母を産み、その後アタシの母を含め3人の女児を産み、呑海さんと別れた後、三國さんという二枚目俳優と再婚をし、そこでも男の子を一人もうけている。
その後映画の撮影中に突発性の腹膜破裂(今で言う盲腸炎をこじらせたもの)を起こし、病院に運ばれたのだが30歳そこそこで命を落とすと言う波乱の人生を歩んだ人らしい。

ネットでは28で亡くなったとか、30で亡くなったとかさまざまで曖昧なのだが、田中氏とお会いする前日、ただ一人、東京で生き残っている叔母(三女)に電話し、聞いてみたら、ソレは計算上有り得なく、どう考えたって33歳くらいで亡くなってるはずだと言っていた。

呑海さんは一般的に言わせると、年端も行かぬ乙女を拉致し、あげく手篭めにし、3人もの子供を産ませ、無理やり女優にさせた悪徳プロダクションの社長ように思われているらしいが、映画界においてはかなりの貢献をし、人々を楽しませることに異常なまでの情熱や夢を傾け、しかも遊び人らしからぬ、3人の女児を全て自分の手で引き取り、育て上げたと言う、確かに破天荒な人だったが責任感だけはとても強い人だったと言うことを聞いて、マンザラ極悪非道なだけの人間ではなかったみたいだなぁと、その血を受け継いでいるアタシは少し救われた気がした。

田中氏は『「ムーランルージュの青春・・・」を手がける前に、実は構想を練っていて撮りたかった映画があったんだけど・・・』という話をしてくれた。
掻い摘んで言えば、うらびれたアイスクリーム売りの老人の話なのだが、実はその後老人は・・・・・・という話で、もしもその映画作りが実現したらとても面白く、三谷作品に勝るとも劣らぬ人間味あふれた小粋でとても面白い映画になると思う。
アタシがもっとも好きな映画の類なのだ。
その映画は是非是非実現させて欲しいです。

さて、田中氏も忙しいだろうし、アタシ達も朝から何も食べてなかったので、いったん田中氏と別れ、アタシとぇみは美味しいと有名らしきラーメン店に。
もう少し金・土の売り上げが上がっていたら、もっとマシな物を食べさせてあげたかったのだが、ごめんよぇみ・・・・・・。本当に情けない・・・・・・(悔涙)

そして上演時間になり会場に戻ったら、田中監督が招待席を用意してくださっていた。
会場は補助席も含め500席が満席状態で、ムーランの劇作家、阿木翁助(諏訪出身)さんの生誕100年と言う記念上映会だったこともあり、そのお孫さんである、トクダネでお馴染みのフジTVアナウンサー、笠井信輔さんがご挨拶に駆けつけていた。

記録映画なので映画そのものに派手さは無いのだが、あの激動の時代に自分の祖父や祖母が日本の芸能娯楽の先人者でいた事がなんとなく、くすぐったいような誇りのようなそんな感慨深い気持ちで映画を観ていた。

上映会が終わり、第二部の監督や映画関係者のトークの時間になり、偉い方々のご挨拶などがあり、前日は緊張感などもあり殆ど寝てなく、少し眠気も差し掛かってきた頃、突如監督に「実はもう一人ご紹介したい人が会場に居りまして・・・・・・ムーランの看板女優だった水町庸子さんのお孫さんでもあり、三木のり平さんの姪子さんでもある中山・・・・・・」と、いきなりアタシが紹介された時は、びっくりし、一気に眠気も覚め、大汗が噴出し、這う這うの体で皆様にやっとこさでお辞儀をした。(笑)

そんな一日であったが、やはり諏訪に行って本当に良かった・・・・・・。
やはりアタシが貧乏の癖に、映画や小説や観劇などの娯楽が大好きなのは、血縁にそんな人たちばかりが居たせいもあるのかなぁ・・・・と、DNAの重さを感じた。

監督は呑海さんの事をぜひアタシに書いて欲しいと仰っていたけれど、とてもアタシにそんな才能も筆力も無く、知識も無い。
でも、監督が話してくれた構想中の映画みたいな、笑って泣けるような人間味豊かなヒューマンドラマみたいなものをいずれは書けたら良いな、と思っているし、一作品くらいは書き上げてみてから死にたいとも思っている。

そこで、アタシは最近新たに決心したことがある。
しかし、この続きは長くなりそうなので、後日ゆっくり日記で書こうと思う。

何か、アタシって本当に駄目な人間で情けない生き様なんだけど、でも、人間ぽくて良い素質も持っているんだよなぁ・・・・・・。もっと自信も持てよ!!と、自分自身を慰めつつ、アタシもそろそろ夢に向かって自分を賭けてみたくなってきた。
どうせ後が無いならダメ元でやるまでだ。

最後に、お付き合いしてくれたぇみちんには、とても感謝してるよ。
暑い中本当に運転ご苦労様。ありがとうね。
ぇみちんの運転はたいしたものだ。(笑)

もう少し美味しいものをおごってあげたかったけど、ごめんよ・・・・・・(涙)
え〜い!! アタシにも意地がある!! そのうち旨〜〜い霜降りステーキの100枚や500枚くらい奢るからさ、待ってるんだぞ!!(舌出)


2012年08月07日(火)

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