あきれるほど遠くに
心なんか言葉にならなくていい。

2002年07月03日(水) 北村薫の視点。



あっつーい。
これぞ京都の夏!このじめじめ感は毎年だけど、たまらんなぁ。
7月になったので、街のいろんなとこで祇園囃子が鳴ってます。良いねぇ。
考えてみればあと10日あまりで宵山だ。
今年はどうするかなー。
あの宵宵山、宵山あたりの人ごみは、体験しないとわからないやろうけど、
何年かに一度でイイと思います。
絶対。
ふつーの、そこらへんの、普段は車も走ってるような道なのに、
その日は満員電車のすし詰め状態と化すのです。
なんでなんかなー、あれ。(疲


北村薫の、『詩歌の待ち伏せ(上)』を、繰り返し読む。
なんでこのひとはこんなに詩や文学作品を知ってるんだろう。
なんで、その中のいちばん素敵な部分がすんなり出て来るんだろう。
忘れっぽくだらしない僕には、もう羨ましいばかりで。
たくさん本を読んでいるということは、それだけでもう財産だろう。
そしてそれがこんなふうにアウトプットされ、違った形で蓄積されるのなら、
それは非常な才能だとか技能だとかに近い。
きっと、この北村薫というひとは、
あらゆるものを新鮮に、愛しながら受け取ってきたのだろうなぁと思う。
それは、
自分が見るもの、聴くもの、受け取るものに対して、
いつもいつのときも、まっさらであるということだ。
自分が初めて感じるものに対して、
いつどんな時も真摯であるということだ。
このひとは、
言葉というものに対して、
いかに敬虔な魂であることか。
僕は彼の書く本にふれるたびに、頭の下がる思いがする。
例えば初めて読む詩に出会ったときに、その詩の何かに驚くというのは、
その詩の何かを恐れるというのは、
自分が言葉に対して否定するものを持っていなくて初めてできるものだ。
僕のように言葉を恐れたり、嫌ったりしていてはできないことだ。
北村薫さんが、そういった過程を経てきた人かどうかは知らない。
けれど、彼の文章からは、生まれ落ちたその時から、
息をするように言葉を吸い、尽きせぬ畏れと憧れをもって
詩や人の言葉を見上げてきたことを思わせられる。
なんだかとても、羨ましくてたまらない。

彼のような人が、詩の批評をすることはないだろう。
きっとそれは批評ではなく讃歌になるだろうから。
けれど、それを受ける人はどんなに幸福だろう。
どんなに極上の花束に包まれたような心地になることだろう。
うん。
僕はその人のことも、妬ましくて羨ましくてたまらない。

一度でいい、北村さんのような眼を持ってみたい。
その見る世界はどんなに、新鮮な驚きに満ちていることだろう。




↑そんなふうに思う相手は、そうはいない。
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