【7】匂いのない風景

 自慢の羽を白い布で覆われた烏と、遠い人のように思える母君が静かに家の中を行き来しています。
 烏の周囲の空気はピンと張り詰めており、母君のそれは穏やかに緩んでいるように感じられます。

「気付いてなかったんだよ」
 指の隙間から部屋を覗き込み、声に出さずにつぶやきました。
「知りたくなかったのかもしれない」

 斜め上には黒額に入れられた父君と祖母の写真。前方の仏壇にはそれぞれの遺品の勲章と阿弥陀如来が置かれています。

「この阿弥陀様は尊いのだよ」と祖母が言っていました。
「額に埋め込まれた赤い石はルビー」
 彼女らしいと私は笑いました。その赤い石も今はすすけて見えます。

 誰とも何とも目を合わせずに烏が窓を開けると朝の外気が部屋に流れ込み、彼女の真っ直ぐな黒髪が後ろへなびきます。
 そこでかしわ手。1つ。2つ。
 我に返る音。

 さらに部屋を物色すると、母君の家具の上には家族の写真がいくつか飾られています。装飾品は写真のみと言ってもいいでしょう。
 父君1人のもの、母君と父君のツーショット、家族3人のもの…。

 隣の部屋には妹君が寝ているのがわかります。起こしてはいけません。しかし、わざとらしいまでに妹君の写真は一枚もそこにはありません。

「母君が喪失した人達だ」

 烏が振り返りもせずに言います。

「3年前に亡くした夫。幸せだった自分。頼れる息子」
「彼女は残る娘と2人、生きていかなければならないと悟っている」

 とうとうと禊の祓いをあげる烏の横で、貝殻の裏のような光を放つ太陽を見ました。懐かしい…。
 大祓いの詞を耳にする頃、私は蝸牛に呼ばれました。なにか不思議で心地のよい音を聞いたような気がしました。
2005年04月04日(月)

寝言日記 / 杏