刑法奇行
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仕事がはかどらないので、前回書いた「最終講義」というものについて考えてみたい。
最終講義は、研究・教育の集大成であり、研究・教育の真髄などを開陳し、究極の極地の講義であるとするならば、コワイコワイことである。なぜなら、自分は結局何だったのかをさらけ出すことになるからである。「なーんだ。そんなものだったのか。」ということになったら、遡及禁止原則ははたらかず、博士課程からもう一度やり直したら、なんてことになる。
そうではなく、最終講義は、普段の講義の延長線上にあり、日常の講義の単なる最後にすぎないのだと思う。したがって、刑法総論であれば、まあ、共犯論あたりを普通にやって、試験がんばってね、というようにである。 しかし、それだけだと、来年もまた講義をもつ感じであるから、何か締めの言葉が必要となろう。最後に、究極の親父ギャグを一発というのもいいかもしれないが、冷笑で終わったら、一生後悔するだろう。やはり、研究・教育への思い、学生諸君への思いを述べるべきだろう。著書のはしがきに書くようなことである。
その思いは、他人から見たら、「何それ」と思われることでもいいのである。その人の長い研究・教育の旅が終わり、今どういうお気持ちですか、と聞く。「旅が終わったという気持ちです。」というそのまんまの回答でも感動するだろう。
もっとも、うちの子供達の小さい頃、旅行先からの電話で「今何してんの?」と聞くと、「電話しているの」というこたえには、感動というよりは驚愕であるが・・・。
いずれにせよ、最終講義は感動を与える。一種の遺言であろう。北の国からの五郎である。「謙虚に、つつましく生きろ」か。 最近感動した緒方洪庵の言葉を贈ろう。
「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。」
医者の箇所に、学者とかさらに人一般すべてを代入することができる。しかし、この境地にたどり着くのは至難の業である。ただ、こうでなくてはいけないのだという気持ちだけは、とりあえず大切にしたいと思う。
それにしても、わが研究室は、洪庵の適塾とはかけ離れすぎている。何とかしなければならないのだが、不能犯かもしれない・・・。
ジャーニー to 洪庵のたいまつ
norio

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