刑法奇行
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2003年03月19日(水) |
ひょっこりひょうたん島の春よ |
昨日は、久しぶりに、教務室ではなく、研究室に閉じこもって、判例回顧の仕上げをした。天才たぬき先生の後だけに、ちゃんとやらねばと思うのだが、判例をじっくり読んでしまってなかなかはかどらない。M藤君もできたのかいな。今年からは、毎月整理していこうと思う今日この頃でした。
帰宅すると、娘がひょっこりひょうたん島の歌と踊りをしていたのには驚いた。一緒に歌ったのであるが、モー娘の影響大である。 あれは中学時代だったのか、毎日見ていた。今から思えば、発想のラジカルな人形劇だったと思う。共同体の思想である。国家というしがらみのない自由さはすがすがしいものだった。 主題歌はもちろんいい。「苦しいこともあるだろさ 悲しいこともあるだろさ だけど僕らはくじけない 泣くのはいやだ笑っちゃおう すすめ〜」である。勇気づけられる応援歌である。 サンデー先生(声は楠トシ江)と子供達とくにペケが中心の歌もよかった。「勉強し〜ろ 勉強し〜ろ 大人は子供に命令するよ 勉強し〜ろ えらくなるために お金持ちになるために ああ そんなの聞きあきた」とぺケが歌い、それに対して、サンデー先生が答える。「いいえ 人間になるためよ 男らしい男 女らしい女 そうよ人間になるために 勉強なさい」と。そして、ペケが感動して、「みんなよく聞いたか 泣けてくる 勉強しろ」と歌うと、「ペケさんもね」とサンデー先生の一言で落ちがつくのである。
ジェンダー論者は、何だこの歌は、と批判するだろう。「男らしい男とか、女らしい女とか、それが、人間になるためとは」と。しかし、私はこれが好きである。「らしい」という基本があってこそ「らしくない」ことに意味があると思う。みんなが「らしくない」状態だったら、こんな住みにくい世界はないだろう。「らしくない」生き方を尊重すればいいわけで、「らしい」状態はやはり美しいと思う。タイタニックだって、デカプリオが死んでいくからいいのであり、赤頭巾ちゃん気をつけてだって、ちっちゃな女の子に足を踏まれるからいいのである。 もっと、シンプルな世界で生活すれば、息苦しくないのにと思うのだが・・・。くれぐれも念を押すが、そういうシンプルな世界で生活できない多くの人がいるわけで、そういう人について考えなくてはならないことは当然である。もっとも、そこには限界は付き物である。
シンプルに考えれば、戦争は好きくない、の一言に尽きる。戦うことが「男らしい男」だなんてことは、まったく間違っていると思う。前にも書いたが、「海のような、森のような男」にならなくてはならないのだ・・・。国連のゆくえはどうなるのかいな。大変な時代到来の予感がするのだが・・・。
ともかく、ドンガバチョは、藤村有弘しかいないのである。代替可能性のない人間、これを目指すべきだろう。これはあらゆる場面でそうなのであり、それはそれぞれの主観が決めるものである。「私にとってのあなた」からはじまって、ドンドン集合体化していくわけである。
「今日がだめなら 明日があるさ 明日がだめなら あさってがあるさ あさってがだめなら しあさってがあるさ どこまでいってもドンガバチョ ドンドンガバチョ ドンガバチョ」というわけである。
それにしてもよく覚えていることに、いまさらながら驚き桃の木である。
ジャーニー to もう謝恩会か
追記 今はドイツに出かけた笹倉さんから『丸山眞男の思想世界』(みすず書房)をいただいた。人間とは何か、学問とは何かなど、丸山を通じた、まさにジャーニーが展開され、大変おもしろい著作である。こういう研究をしている笹倉さんに嫉妬すら覚えた。なぜ、刑法学でこういう躍動的な研究ができないのか、みんなチマチマしている感がある。おそらく、関心範囲が極端に狭いのだろう。ヤコブスの「Norm・・・」のような研究を還暦めざしてやってみるか、と思う今日この頃でした。
norio

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