刑法奇行
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2003年04月13日(日) |
キャッチャー・イン・ザ・ライフ |
サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が村上春樹の翻訳で出版された。昔、『ライ麦畑でつかまえて』という野崎孝訳で読んだが、とりあえず買ってきた。野崎訳が面白かったのは、その文体にあった。庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』との類似性が当時問題となったのも、この文体にある。もっとも、最後に女の子がでてくるのも、あとがきも、実はよく似ている。しかし、両者の感性はまったく違うので、許された危険の範囲内かもしれないが・・・。
ともかく、文体とは実に不思議なものだ。内容は当然重要だが、文体はそれに匹敵するほど重要であろう。同じことを言っていても、文体によって印象と影響力は明らかに違う。学生の答案などを見てもそう思うし、刑法学者の論文や著書を見れば、一目瞭然である。
文体は、影響を無意識に受けるものである。いつしか、指導教授のN原流になっていることも多い。とくに、翻訳作業の訓練を受けただけに、翻訳する場合に顕著にあらわれる。「・・・というのがこれである。」という言い回しはグッドであり、「である。である。である。」と続く文章はバッドである、などというのは、N原研究室のメンバーにとっては、あたり前田のクラッカーである。
文体の天才は、やはり、太宰であろう。刑法学者の中では・・・。名を挙げるのは問題があるので、各自考えよう。もっとも、文体の好き嫌いがあるのは面白い。
ともかく、読ませることが大事である。読者に知恵熱がでてくるようにすることが必要であろう。自己の中だけで完結していては駄目だと思う。他者にズシンズシンとくるもの、そういう意味で面白いものがいいのだろう。
まあ、サリンジャーの題名にはまいるが、考えてみれば、我々は誰かに支えられているのは、あたり前田として、誰かを支えていることにもっと気づいた方がいいと思う。それぞれの人生のキャッチャーにみななっているのであろう。
もっとも、人生のピッチャーになることも大事である。しかし、投げっぱなしは良くないし、投げやりになっては危険である。昔、近鉄の鈴木がCMで「なげたらあかん。なげたらあかん。」と言っていたが、彼は、大いに投げていたのだから、矛盾に満ちたCMだったと思う。責任者でてこい!と、人生行路さんだったら言うだろうに・・・。
ジャーニー to 『雑務畑でつかまえられて』
norio

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