母のタイムスリップ日記
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ちょっと前から再読している本がある。 河合隼雄の本である。 ある時期、気になって手にした本だ。 母の事に関わるようになってからの私は、かなりの興味が湧かないと本を買う事が無かった。 もともと、話題作として皆が読む時は、外す傾向には有るのだが。
あの頃、きっと家族関係の事での興味から河合氏の本を読み始めたのだと思う。でも、その時の私は、自分の考えの中でグルグルとしていて、どの程度読み込めていたか…。と今思う。
今回の再読で、あの頃と随分視点が変わってきているなと感じている。 「そうだよな」と言う感覚なのだ。以前は、もっと熱かったと思う。 私の読み方は、こんな風にその時の心模様によって大きく変わるのが特徴かな?と思ったりした。
活字という事から考えると、母も今尚 活字を追う。 時に、文から心を読み取る事もある。 此の頃の母は、稀な事となったが…。 今でも、看板や町名等を読んでいる。 看板一つであっても、母には拘りがある。 母は、カタカナや英語表記の物を声を出して読む。意味がわからない時は何回も反芻して、自分の記憶中にある単語に照らし合わせて修正して正しい言葉に到達するのである。 例えば看板がお菓子屋さんの名前で横文字であってお菓子と何の関連性も無い横文字だとしてもその中からCAKUと言う文字を見つければお菓子屋かなと 到達できる。 けれど、抜け落ちた単語や知らない単語もかなりある。 「パソコン」等がそうである。 すると「パソコンて何だろう?」と質問してくる。 「コンピューター」と言うと「あー」とわかる。 けれど、其れ以上の説明は母は必要ではないのだ。 私は、つい 「これが、パソコン」等と説明するが 母はテレビくらいにしか 考えられない。 「昔のコンピューターは大きかったね」等と話しても「ふーん」と聞き流されてしまう。 母との話が瞬間だと言うのはこういう事なのだ。
母にとっては意味のある事でも、普通の生活をする者にとってあまり意味の無い事だったりもする。 それでも、会話する事で何かが伝わるような気がするのだ。
活字から逸れてしまったが…。 母は、本を読むという事は無理なのだ。でも、短い文はやはり読むようである。読み始めると、書くと言う行為も伴ってくる。 先日も「寒い。ストーブのそばに行きたいな」と書いてあった。 テレビよりも活字からの刺激の方が入っていくように見える。 母も、心模様で読めたり読めなかったりするのかもしれないな。
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