短いのはお好き? 
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2002年05月05日(日) セント・エルモス・ファイヤー


 右舷の方向に蒼白いセント・エルモの火が見えた。


 あいつまたやってるな。あれほど安売りするなといったのに……。
 ディックは眉根を寄せて、漆黒の海面に唾を吐いた。
 まあ、仕方ないか。あいつはまだほんの小僧っこだからな。
 オレも若い頃は愚かなあいつらの驚く顔が面白くって、すぐセント・エルモの火を灯したもんだった。
 だが、あいつは限度ってぇものをしらねえな。ったく近頃の若いもんは目立ちたがってしょうがねえ。


「ちょっとちょっとディック、なにぶつぶつ言ってるのさ」
 ん? ディックは声の主を捜した。まっ黒の海面に海月(くらげ)がふわふわ浮いている。
「なんだ、めずらしいなばあさん。しばらく顔を見なかったけど元気だったかい?」
「ああ、あたしゃ元気さ。それにしてもディック、あんたも歳をとったねえ」
「ハハ。よく言うよ。ばあさんに言われちゃ世話ないな」
 ちゃぷちゃぷと、黒い波がディックの腹を洗った。


  ばあさんが言った。
「ところで、あんたの相棒、シーナって言ったっけか? 見あたらないね」
「ああ。シーナかい。3年前にあのアホどもにやられちまったよ」
「そうかい。あんたも寂しいねえ。また、ひとりぼっちか……」
「なに。オレにはこれが性にあってるんだ。そういうばあさんの方はどうしたい?」
「あたしゃ、極楽隠居さ。一人娘も去年やっと嫁にいってね。もう思い残すこたあないよ」
「ほう。あの子が。そりゃあよかった。じゃあ、お祝いをしなきゃあなあ」
「よしとくれよ。あたしゃ、こうしてあんたと会えただけで嬉しいんだよ。でも、またすぐどこかに行っちまうんだろうけど……」
「まあな。今夜は月も出てないし、そろそろ時化(しけ)るだろう。そうなると俺の出番だしな。今夜中には、東シナ海の方へいくつもりさ」


「そうかい。じゃあ、もう行くんだね」
「ああ。元気でな、ばあさん。次に会ったときにゃあ、またゆっくり思い出話しでもしようや」
「そうだね、ディック。あんたも元気でね」
「ディックは、ばあさんを気遣って波の立たぬようゆっくりと旋回すると、東シナ海めざして動き出した。
「じゃあな、ばあさん。達者でな」
 ディックは、ざぶざぶと黒い波をかき分け、かき分け真一文字に進んでゆく。
 ばあさん、目を細めて見送った。
 

 ところが、突然金切り声をあげて、ばあさんがディックを呼んだ。
「ディック、ディック、待っておくれよう!」
 急いで戻ってくるディックの起こした波に、ばあさんは大きく揺れた。
「どうしたい、ばあさん。大声あげて」
 ばあさんは、揺れながらか細い声でいった。
「ごめんよ、ディック。怒らないで聞いてくれるかい」
「怒るもなにも……急にどうしたい」
「いやね、あんたを見送ってたら、もう二度と逢えないんじゃないかって思ってさ」
「なんだ、そんなことか。さっきのばあさんの声じゃ、まだまだ30年はぴんぴんしてるさ。ありゃ、東シナ海まできっと聞こえたぜ」


「じゃあ、ディックひとつ頼みがあるんだけどね」
「ああ。オレの出来ることならなんでもするよ」
「そうかい。ほんとうに優しいね、あんたは」
「ばあさん、世辞はいいから、早くいいなよ」
「あのさ。お別れにね、あんたのあの素晴らしいセント・エルモの火を見せておくれでないかい」
「なあんだ、そんなことならお易いご用さ。それにしても、お別れになんて辛気くさいこと言わないでくれよ。いつとは言えないけど、また必ず戻ってくるからさ」
「ああ、ああ、わかっているさ。あんたは必ず戻ってくる。戻ってくるとも。だけどもね、あたしゃもう老い先短いんだよ。もしかしたらこれが最期かもしれないんだ。だからさ、あんたのセント・エルモの火を見ておきたいのさ」


「わかった。だけどな、こりゃあ、別れのためにやるんじゃないぜ。今度逢うときまでの約束手形として灯す火だ。そんときまで、ばあさん達者でいろよ」
「ありがとうよ。ディック。あたしゃ待ってるとも、あんたが戻る日を」
「なんだなんだ、ばあさん。小娘じゃあるまいし、めそめそするなよ。じゃあ、今度こそ達者でな。また逢おうや」


 と、言い終わらぬ内に、ディックの帆柱は先端からめらめらと蒼白く燃え輝きはじめた。蒼白い炎の舌端は、音もなく燃えひろがり、その冷たい炎は、漆黒の夜空を焦がした。
 いま、ばあさんは、セント・エルモの火を眼前に見ながらその蒼白く神々しいばかりの炎で照り輝く海面にたゆたっている。
 この世のものとは思われぬ光景に、ばあさんは、はらはらと涙を流した。
「ありがとう。ありがとうよ、ディック」
 ディックは、大きく旋回すると、ゆるやかに波をけった。
 セント・エルモの火がゆっくりと遠ざかってゆく。


「ばあさん、達者でいろよ!」
 ディックは後ろ姿でそう言った。
 ばあさんは、いつまでも、いつまでも波にたゆたいながら見送っていた。




 ばあさんは、知っていたのだ。
 もう二度とディックが帰らぬことを……。


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