短いのはお好き?
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……気がつくと中目黒だろうか、駅のホームのベンチにぼくは座っていた。
膝には読み差しの文庫本。 何か不思議な感覚に囚われていた。 ただぼーっと『ソフト・マシーン』の字面だけをおってゆく内に、盆の窪あたりがちりちりと痺れるように痛んだかと思うと、不意にこれから起こるであろうことを逐一予知していることに気付いたといった塩梅。 だが、かといって何を変えられるわけでもない。ただ近い未来がわかってしまったというだけにすぎないこともわかっている。
何気ない様子を装って、向いのホームを眺め遣る。 普段とまるっきり変わらない何の変哲もない眺めだけれども、ひとけのないホームは、全体が生き物のように密かに脈打ってるのがわかる。 しらばくれって、再び文庫本に目を落とす。 すると、ホームは俄に大胆になっていよいよ大きく波打ちはじめ、その向こう側に停まっている無人の電車もぐにゃりぐにゃりとのたうちだすや、その身を持て余したように伸びたり縮んだりしている。 ぼくは今気付いたとばかりに文庫本を見事に取り落とし、大仰に驚いてみせたりする。
その間にも線路は枕木もろともまくれあがって、ちょうど弛んだロープの端を持って打ち下ろしたときのように、大きく弓なりに反り返りながら右、左と交互に波打ちはじめ、そのひと振りごとに枕木が風を切って宙を舞う。そうやって二本のレールは身軽になってゆき鞭打つような動きの振幅の度合も加速度的に増して、ついにはホームを覆う屋根すれすれまでにまくれ上がったかと思うと、今度は左右てんでばらばらにアルファベットのmや、wに似た文字を形作ってみせ、次いで何やら単語を描き出し始める。 そのレールの軌跡の残像を追ってゆくと……
ko no kuso bukuro yarou!(この糞袋野郎!)と、読めた。
なるほどね。確かに糞袋にはちがいない。 あるいは、この蛆虫(うじむし)野郎でも。
声も出ず、ただ呆然と見つめている男……を演ずるよりほかなかった。 振り返ると、東急ストアの屋上パーキングに停めてある車のタイヤが次々に破裂してゆき、ボンネットが爆発音と共にはね上がる。ホームの屋根も、それに呼応するかのように一瞬にして吹き飛ぶと眼前に広がるどんよりとした黄色っぽい空を背景にして、墨流しのように様々の紋様の黒雲が一点を中心にゆっくりと回転していた。 と、黄色からオレンジへと変化しつつる空の一角がぱっくりと口を開け、鮮やかな紫の煙が流れ出てくるやジミ・ヘンの耳をつんざくフィード・バックを効果音に、朱色に染まった巨大な眼球がぬるりと現われ出た。 眼球はそれ自体が紅いのではなく、眼球の表面に浮き出ている毛細血管から血のような汁がにじみ出ているようで、それが塊となってぼたぼたと滴り落ちている。 そいつが降下してくるにつれ風が巻き起こり、両耳がエレベーターに乗ったときのように詰まった感じになった。 やがて目を覆いたくなるほどに間近に迫って来ると、太陽は遮られ辺り一面眼球の朱色が反射してぼうっと紅く滲んで見え、それをバックにぼやけたオレンジの丸い光彩が幾つも折り重なって飛び跳ねていた。
声も出ずただ呆然と見つめている中年男性?……の演技にもそろそろ飽きてきて、ふと見た足許にころがっていた……いや、実際はもう頃合だなと思って足で引きずり寄せておいた……半透明のビニール傘をおもむろに引っ掴むと、血走った巨大眼球めがけて投げつけた。 とどくはずもないその傘は、しかし吸い込まれるように眼球めがけて真一文字に飛んでゆき、瞳のど真ん中に見事に命中する。そして、眼球はプリンのようにぷるぷると小刻みに震えだしたかと思うと、あまりにもあっけなく風船みたいに破裂した。 粘ついた赤い液状のものが四散して、ホームにも周りのビルにもふりかかり何もかもがとっぷりと朱色に染まる。まるで血の池地獄そのままだった。 それから世界は、瞬間ぐらりと斜めに傾いだかと思うと、ゆっくりと回転しはじめた。
……と、そのとき。 ポケットのケータイがいきなり震えだした。 手さぐりでボタンを押して、耳に押しあてる。
「……はい?」
「もっしもっし 亀よ 亀さんよう♪」
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