短いのはお好き?
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「 許せない奴」というものを、小説的なものの見方より、少々考えてみた。
自分のことから先ず述べてみると、現在私には「許せない奴」なる存在は思い当たらない。それは、単に私が鈍いことの証左に過ぎないのかもしれないが、しかし、対象を個人から集団にまで押し広げると話は違ってくる。
ただ、ここでは私の腹立たしく思っているその存在を披瀝することは憚られるのだが……というのも、ここで私が批判なり非難がましいことを述べたてることによって、逆に私が『けしからん奴」あるいは「許せない奴」と、糾弾されかねず、私はその愚を犯したくないからだ。
だが、それこそ「許せない奴」とはどんな奴であるのかを逆説的に提示することにも繋がるわけで、この文章の当初の目的は達成されるやも知れないが。
多少の例外はあるだろうが、そのように人は各々、個々の利害によりものを考え行動するのであり、その各々の利害が偶々噛み合わない時、互いにあいつは「許せない奴」だ、ということになる(ちなみに、この場合第三者からは、私は「保身的な奴」ということになる)。
このように、己の利害のみにとらわれている限り、いがみ合うことになるのだが、当事者間に於いて死活問題といった場合でも、第三者は自分にその利害が及ばない限りは、傍観するのみである。
しかし、ここに利害が絡む「許せない奴」ではなく、一般常識より見た「許せない奴」なるものが存在する。極端な例をあげると、殺人の如き犯罪を犯した者のことである。
常識的に考えると、ある人物が殺人を犯したとなると、なんて酷いことをするんだろう、あいつは「許せない奴」だ、となるのだけれども、それをそのまま小説にしたとすると、薄っぺらなものとなってしまう。
世にこの勧善懲悪的なお話は多々あり好まれてもいるのだが、そのような悪を悪としてのみ捉えるといった外皮的な考えではなく、何故このような殺人が行なわれたのかという観点から事件を捉えなおすことが、小説のやり方であると思うのである。
これは、常識は説明するまでもなく既に常識なのであるから、敢えて小説にしてまで読者に示したところで仕方のないことと思われるからであるが、この常識といったものが実は、曲者なのである。
人はこの世に生を受けてより家庭で、あるいは学校で様々な所謂常識なるものを叩き込まれ、人足りえていくのであるが、どうしても人間は、そういった常識といったものに邪魔をされ「無知の知」的な存在、またその思考を忘れてしまう。
常識ではこうなのだが本当にそうなのだろうか、ともう一度疑ってかかる時、そこに新しい切り口を見つけ全く異なる視点で事物や事象を捉えなおすことにより、逆に未だ知りえなかった現実が見えてくるのではないか、そしてそこに小説の存在意義があるのではと思うのである。
それ故、「許せない奴」は、小説の格好の材料となり得ても、『許せない奴」的思考は却って創作するという行為からは、かけ離れた存在である筈である。
極論ではあるけれど、「許せない奴」が「許せる奴」に、つまり加害者こそが実は被害者なのではといった、非常識きわまれる思考によって創作の『しっぽ』を捉えられる可能性は、高まるような気がする。
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