短いのはお好き?
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映画や小説におけるリアリティとは、いったいなんのか。少々リアリティについて考えてみたいと思います。
ただ、小説や映画にそもそもリアリティ、いわゆるリアリティなどといったものが、本当に必要なものであるからここで考えようといているのではないようなのです。
私は書きながらでないとモノが考えられない人間なので、書き進めてゆく内にはおぼろげながらも何か見えてくるのではと期待している訳なのですけれど、やはりリアリティなるものは必要であるようにも思えるのです。というと、なんかわけわかりませんが…。
小説でも映画でもリアリティなど要らないといか、敢えて度外視しているというか、ま、変な話ですが、いわゆる現実感というものは存在していなくて、しかし、その想像の世界におけるリアリティというものはむろんなくてはならないわけであり、そういったものが欠如していたり統一されていないと嘘っぽいとかリアルではないということになってしまう。
読者はつまり、上手にだまされたいわけで、その物語特有のリアルというものが存在するわけであって、自分の身の回りに実際おこっていることだからリアルだということもなく、つきつめていえば、ドキュメンタリーだからリアルそのものなのだ、というもちょっとと思っているわけなのです。
ここで少々翻って考えてみるに、なぜまたリアリティなどというものに突き当たってしまったのかということを思い出してみると、いわゆる<書かれたもの>が今現在つまらなく思えるようになっているからなのです。
ここでまた矛盾が生じてしまうわけなのですが、つまりつい先程、物語世界ではその世界固有の規則性をしっかり構築することによって、その物語の現実感を生じさせ得ることが可能となるといっておきながら再びここで書かれたものはつまらんなどとケシカランことを吐いているというわけで辻褄が合わないですけれども、しかし、そういった物語世界の現実性がしっかりと存在しているということと、面白いということは別問題であるわけで、しかし、面白いか否かは個人的な話であって…。
となると、リアリティ云々の話ではなくて、むしろ物語性の問題であるのか、ということになってきますが、そこらへんがよくわからない。
すると、なにが面白くて、なにが面白くないのかということにもなってくる。これもまたまったくわからない。
例をあげるとすると、娯楽映画。entertainmentですが、これは面白い。
ドキュメンタリー映画。面白いけれど、リアルそのものだから面白いということではないようだ。
むろん、そこにおいて自分の現実、自分の置かれたあるいは自分を取り巻く現実の認識と、物語世界における規則性にのっとった現実にただ単に差異が生じていればよいということではなく、小説や映画からリアリティを感じ取るのは、それらによって、自己が逆照射を受け、自分は生きているのだと自分では意識せずとも考える機会を得たときではないでしょうか。
スクリーンを見つめながら、あるいはページを繰りながら自己を見つめなおす作業を知らぬ間に…filmの駒と駒の間に、あるいは行間に…行い、自己の存在の認識を新たにすること、それがリアリティを生むのではないか。
こんなんでましたけど…。
わけわかんなくて、どうもスンマソ。
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