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2003年12月17日(水) |
映画ニッキ ☆暗殺のオペラ |
どうも腑に落ちないのだけれども、アトスは狂言めいた見え見えの小芝居をなぜ演ずる必要があったのか。裏切り者として同志たちに殺し易くしてやったというわけなのだろうか。何故またそんなまわりくどいことをしたのか。ムッソリー二をたとえ暗殺したにせよ、ファシズムの思想は受け継がれ第二第三のムッソリー二が出てくるのだから、その思想を根絶やしなければならない。そのためには俺を暗殺しろとただ命じればよかったのではないのか。
ファシズム根絶のため我が身を捧げるアトスはまさに真の英雄であるけれども、その英雄でありリーダーである同志を大義のためとはいえ、自らの手で殺さなければならないといった三人の同志たちの苦悩は一切描かれない、といった点も腑に落ちないのだった。
むろん、描き方や切り口は無限といってもいいだろうから、ベルトルッチはそういった人生の苦悩といった側面をこの作品では見せたくはなかったらしい。
しかし、私のこういった物の捉え方もまた、心理描写で以て人間を克明に描いてゆくといった苦悩好きな所謂湿った文学的感性を引きずっているからにすぎないようだ。
ビットリオ・ストラーロのキャメラはどうだ。絵画を思わせる見事な描写が随所に現れる。
父アトスの数少ない理解者である肉屋の貯蔵室での赤い色調で統一した影像、食事を摂るふたりを肉屋の親父の後方からねらったショット、四人の秘密の会合場所である廃バスの車体を棒で叩いてベルカント唱法で声を張り上げる幻想的なシーン等、絵画に優るとも劣らない重厚な印象が残った。
また、アトスが森を駆け抜けるシーンは素晴らしいの一語に尽きるだろう。アトスはいつしか英雄である父アトスになりかわっている。
きっと父アトスもあのように、あれとそっくりに森を駆け抜けたにちがいない、ともとれるのだがまるで父アトスと同化してしまったようにも取れる。
それと同様に前出の肉屋の貯蔵室で肉屋が息子アトスに父の思い出やら肉の蘊蓄を傾けるシーンがあるが、何度も暗転が繰り返し行われるのだが、これも過去と現在が入れ替わって映し出されている、その切替えとして暗転が差し挟まれているのだろうか。
と、ここまで書いてきて、あることに気がついた。アトスがまわりくどい芝居じみた真似をしたわけは、なんのことはない本編が「暗殺のオペラ」であるからに相違ないのだ。つまり、この本編「暗殺のオペラ」自体が、スクリーンというフレームのなかで今まさに上演されているオペラの演目なのである。
それは、アトスが暗殺された劇場は、スクリーン上に再現されはしても、上演されているオペラのシーンといったものは一切映し出されない。時折インサートされる当時の回想シーンには、計画当日のものはないのだが、問題はフレームである。
劇場の舞台を客席側から真正面に捉えたショットがワン・ショットもないのである。 それは、とりもなおさずこの映画自体がいままさに上演中の「暗殺のオペラ」という演目を映し出しているからなのだ。
わかりにくいかもしれないが、実のところキャメラはずっと舞台を写しつづけているのだ。だから、ワンショットも舞台を正面から捉えたカットがないというのは、誤った表現かもしれない。全てFIXでの撮影なのだから。
それは、映画のキャメラでオペラを撮っているキャメラのファインダーを覗くようなものである。
だから、我々は「暗殺のオペラ」という映画を観ているのではない。少なくともベルトルッチはオペラを映画に翻訳する、そのことを意識して演出したに違いないと思えて仕方ないのだ。
前述したアトスの狂言や、廃バスのところでの幻想的なシーン、逃げたライオンを窓から眺めるアトスの後ろ姿という回想カットに、現在のアトスの元愛人がかぶさり台詞をいう、などととても演劇的な演出からも窺えるのだ。
そしてなんといってもエンディングのシーンが堪らない。二十分待ちが三十五分待ちになり、新聞も届いていないばかりか駅自体が忘れ去られているタラ。やがて、鉄路は雑草に覆いつくされ完全に見えなくなってしまう。
土地までが英雄父アトスの伝説を守ろうとするかのようだ。命を賭してまでファシズム根絶を願ってやまなかった父アトスの遠大な計画遂行のためたとえ息子であろうとも門外不出の秘密漏洩の危惧が少しでもある場合は摘み採ってしまおうとするかのようだ。
しかし、ここまではっきり見せる演出ならば、父アトスが息子を呼び寄せたと考えるのが妥当だろう。つまり、それは彼の遺志を継がせるためということだろう。
*某サイトに掲載済みのtextれす。悪しからず。
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