2002年11月20日(水) |
やったぜ!!中村泰広!! |
ついに母校出身の選手が、阪神タイガースにドラフト指名された。 興奮冷め遣らぬ・・・そんな感じだ。 彼の快投が観たくて、よく奈良の地方予選へ足を運んだものだ。 そして、、亡くなった父と最後に一緒に観た野球の試合が、彼の完封試合だったな。 1安打完封と完璧な内容に、普段あまり人を誉めないヘンコ親父の父も、 「ええ球放るなぁ」と絶賛していたのを思い出すよ。 彼が好投手へと変貌していくルーツは、1995年春の選抜大会であろう。 阪神大震災があった年の、いわゆる「応援自粛」下で行われた静かな大会である。 まだ肌寒い曇りの日、私は友人の若林と甲子園のスタンドで彼の先発マウンドを見守った。 相手は、翌年のドラフトでダイエーに入団した松本投手(3年)を擁する熊本工だった。 投手としての力の差は歴然としていた。 2年生の中村は四球と失策で自滅し、序盤で4失点して降板、マウンドを宮越に譲った。 宮越はこのリリーフ登板が評価されて、後に中日に入団している。 ここでKOされてから、彼は怪腕投手へと変貌を遂げる事になる。 エースの座を宮越に奪われ、屈辱をバネに頑張ったんだと思う。 それからの彼は、完封は当り前、しかもほとんどの試合の被安打が5以下、 無安打無得点も3回、そして奈良県高校野球の奪三振記録19を保持する投手となったのだ。 だが甲子園への道は、あと一歩というところで阻まれ続けて、高校生活を終える。 2年の夏は、県準々決勝で、高田の二輪投手に1−4と投げ負けて敗退。 秋は、近畿大会初戦で滝川二の森川投手に0−4と敗戦。 3年の夏は、県決勝で現阪神タイガースの関本がいた天理に0−1で敗戦といった具合だ。 この3年時の彼は、凄いの一言に尽きる。 練習試合では、近畿の強豪をほとんど完封し、本大会でも決勝まで全て一人で投げ切って、 失点はわずか2ながら、その2失点目が決勝戦での決勝点となり、甲子園切符を逃した。 慶應大学時代は、近鉄に入団した山本省吾に次ぐ2番手投手に甘んじたが、 山本が怪我をしたシーズンにエースとして活躍し、リーグ最多勝を獲った事もあった。 そして日本IBM野洲に入社して、今日のドラフトへと繋がっていった。 何れの段階においても、脚光を浴びるという存在ではなかったが、 この苦労がきっとプロに入ってからも生きるだろう。 強豪の私立を出たエリート達には負けて欲しくない。 是非、遠山投手のような存在になって欲しいと思っている。
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