| 2004年05月31日(月) |
レベルの低い親善試合 |
サッカー国際親善試合、アイスランドvs日本が、英国で行われた。アイスランドは6月に開催される欧州選手権には予選敗退しており、出場しない。アイスランドの代表選手の多くは、英国リーグ(プレミア、一部等)で活躍しており、この時期はリーグが終わったばかり。選手のコンディションはよくない。選手のモチベーションを敢えて探すならば、06年W杯ヨーロッパ予選開始に向けて、代表レギュラーの座を確保するといったところだろうか。 試合として体をなしたのは、前半45分だけだ。後半開始にどちらも大幅に選手を入れ替えたので、練習試合のような雰囲気に流れた。 日本が遠征先で2点を入れたのは収穫である。これまで得点力がないといわれていただけに、FW久保が欧州の中堅どころから得点したのは評価できる。もちろん、久保に絶妙のパスを出した小野を評価しなければいけない。小野のパスは守備ラインから、相手DFの裏側に測ったようだった。判断力、強さ、コース等、ワールドクラスと言っていい。 小野と久保がどれだけの時間をかけてコンビネーションの練習をしたのかといえば、おそらく、ここ数試合、2人が代表に同時に選ばれたときだけだろう。コンビネーションの形成とは、時間をかければそれだけで熟成されるものではない。感性と言ってしまえば抽象的すぎるけれど、運動選手のアンテナ――その感度の鋭さのようなもので形成されるように思う。 アイスランドは、チームとしてはお粗末である。荒っぽくパワフルではるが、それだけではサッカーは勝てない。技術はないし規律もない。アイスランドの得点はFKからだった。日本がリスタートに対する守備がうまくないため、得点になった。それ以外は、ハイボール、ドリブル、クロスに合わせた飛び込み、と戦法はシンプルだ。後半、アイスランドは退場者を出したが、ボールを支配できないイライラからだろう。こんなチームに負けなくてよかった。 日本の後半の攻撃もひどかった。4バックに替え、退場者を出したアイスランドに5人(鹿島アントラーズの鈴木・柳沢・本山・小笠原のセット+ボランチもしくはSB)で攻めたが、決定機をすべて外した。後半は鹿島アントラーズの同窓会。海外失格組の鈴木・柳沢は遠からず鹿島に復帰すると思われるが、二人を鹿島国内組の本山・小笠原と組ませて、融和を図ったか。Jリーグのための予行演習だとしたら、代表の私物化だ。 この試合に限れば、俊輔はコンディションが悪いように見えた。いまのままだと、中田の代役(トップ下)は無理だろう。中田(欠場)の穴を埋めるのは、藤田もしくは小笠原の方がよい。 何度も同じことを書くが、三都主は左サイド(ハーフ)の方がよいことが、この試合でより明確になった。そもそも、中盤に人材が厚い日本代表の現状を踏まえるならば、3−5−2が自然。SBを急造でつくるのは無理な話である。 明日のイングランドホームのイングランド戦に対する期待は、私にはない。スタジアムの雰囲気もこの試合とはまったく違うだろう。3点差以上の大差で負けると予想するが、どのような結果に終わろうと、貴重な経験として受け止めるしかない。
日本(U23)代表vsトルコ選抜。トルコ選抜(平均24.5歳)って何?報道によると、正確には、A2代表というらしい。A代表経験者+若く将来を期待されている代表候補選手の構成といったところか。スピード、パワー、体格で日本を上回っている。個人レベルで見れば、トルコ選手の方が日本より格上だ。コンビネーションも悪くない。トルコ選抜チームは、日本に来て3日目、本国でどれくらい合同練習をしたのかは不明。この試合の位置づけとしては、日本U23代表の強化試合だが、フレンドリーマッチであることに変わりない。 前半はトルコにゲームを支配されたが、トルコのクロスボールが精度を欠いて、何とかしのいだ日本。後半開始と同時に、阿部のFKがポストをたたいた。惜しい。一方、トルコはその直後(後半8分)、FKを9番のフセインカルタルがGKの前で日本のDF・那須に競り勝ってゴールを決めた。その後もトルコ有利のまま、トルコが押し切るかと思われたが、40分過ぎ、日本がCKを今野が決めてドロー。その直後、平山に決定的チャンスがあったが、シュートがGK正面に飛び、勝ち越しはならなかった。日本(U23)代表としては、ホームで負けなかったのは収穫だろうか。 個々の力量でまさるトルコ選抜が日本に勝てなかったのは、アウエーであるから、コンディション、コンビネーション、結束力、戦術面の不統一等々の結果だろう。この一試合について、勝ち負けや試合内容について日本(U23)代表を評価しても始まらない。善戦と言ってもいいし、負けなかったのは幸運と言うこともできる。
きょうのJリーグは、東京Vvs浦和について書く。結果は3−1で浦和の勝ち(東京Vホーム)。前半、田中のスピードで2点を上げた浦和が、東京Vの反撃を振り切って勝った。 注目は、東京Vの森本だ。エムボマがケガで欠場したため、森本が先発し90分間ピッチに立った。森本にチャンスが2度あったが、生かせなかった。この試合に限るならば、森本は、スルーパスへの飛び出しのタイミングはいい。反応面では光るものがあったが、TV解説者のY氏が指摘していたように、ファーストタッチ、トラップは下手だ。サッカーの場合、トラップの上手下手は天性の才能次第、というのが私の持論。もちろん素人の持論であって根拠はない。練習次第というご意見もあるだろう。専門家のご教示をお待ちする。 というわけで、私の森本評価はきょうの試合を限りに、下方修正することとなった。先にも書いたように、森本は中学生としてはベストプレイヤーの一人だが、この先、Jリーグ→日本代表→欧州リーグ等へと成長するかどうかには疑問が残った。私の評価では、森本はJリーグどまりと見た。 浦和は坪井をはじめ、いい守りをしたところもあったが、あれ、というミスもあった。それを生かしきれなかったのは経験の有無だという判断――換言すれば、経験を積めばチャンスを生かせるようになる、という見方は確かにある。しかしながら、私はそういう見方をしない。大雑把に言って、90分で光るものがあれば期待をするし、そうでなければ、早咲きの選手という評価で終わる。トラップ、ファーストタッチの能力は、いい選手かどうかの最適のメルクマール。たとえば、前線でボールを受ける際のトラップの能力で言えば、持ち味が違うが、大久保(C大阪)の方に非凡さを感じる。 もちろん、森本には成長してほしいが、練習すればすべてうまくなるというわけではない。
| 2004年05月16日(日) |
戦いのコードの再構築 |
続けて浦和vs市原の主審の判定について書く。スポーツマスコミで話題になっているのは、浦和がロスタイムで与えたPKの判定。ビデオで見ると、浦和の鈴木が犯したファウルの位置がエリア内か外か微妙だ。主審の見る位置によってどちらにも見える。だから、PKの判定は仕方がない。浦和にはあきらめてもらうほかない。 問題は、このプレイがPKかどうかではなく、主審のPKの判定が先に市原に出したPKの判定とバランスをとって出されたものかどうかなのだ。主審の判定が、市原に出したから浦和にも出すという、喧嘩両成敗みたいな判定では困る。サッカーの主審は大岡越前守ではない。1つ1つのプレーは独立しているのであり、主審がゲームの流れを見ることは当然だが、市原にPKを出したから浦和にも、というのでは選手はたまらない。イエローもそうだ。3回注意をした後はイエローなんて規則はないのであって、悪質なら一発レッドでいい。 繰り返すが、マスコミが熱戦と評価するきのうの浦和vs市原の試合――後味の悪さが残った主因は、主審が三都主に2枚目のイエローを出さなかっからだ。市原2−1でリードの時点だったが、この判定を境に流れは一挙に浦和に傾いた。市原の選手には明らかに落胆が感じられたし、不調の三都主は息を吹き返した。その後、浦和は一挙に2点を奪って、3−2と逆転した。 この試合のポイントは、主審の誤審だった。選手は主審の判定基準を頭においてプレーする。それが崩れたのだ。しかも、市原は、その前に自軍のGKがオーバータイムという信じられないミスによって1点を失っている。市原のフィールドプレイヤーは、およそ予期できない事態を2回続けて体験したのだ。戦いの最中、心理的ショックを2回受ければ、逆転されるのは当然だ。オシム監督は試合後、引分けを選手の質の問題であるかのようにコメントしたが、質というのは一流かどうかの意味だ。市原の選手が受けたようなショックを克服できる選手は、もちろん一流だが、Jリーグにはいない。 この試合、選手の心理面の流れを読む上では、おもしろい試合だった。選手の心理を左右するファクターの1つに、主審の判定も含まれることもよくわかった。 さらに、主審の心理を読む上でも参考になるものだった。私の推測では、主審のOさんは、三都主のイエローをためらったことで、試合をコントロールする自信を失った。その心理を引きずって市原の茶野にPKを出した。ここで、自分の判定は浦和に偏っているのではないか、という思いに強くとらわれた。その反動というか、自己浄化作用として、Oさんは、ロスタイムに市原にPKを与え、自分自信を納得させた。 主審の心理はスポーツの本質ではない。重要なのは選手の試合中の精神のあり方だ。ここからが私の結論になるが、市原の選手に求められるのは(市原に限らず、すべてのサッカー選手にだが)、自分達が試合中定めたプレーのコードが崩壊した後、新しいコードを再構築する切り替えだと思う。おそらく、驚異的な精神力が求められるだろう。でも、それができなければ、優勝するチームになれない。 相手チーム、審判、サポーター、さらに味方を含めて、戦いのコードを再構築する精神力。たとえは悪いが、この精神力のあり方は、「特殊部隊」に似たものだと推測する。予定が狂い、想定した事態と現実は異なる、そんなとき、戦いながら、勝利の道筋を探ること――想像を絶する作業だ。 そういえば、ある評論家がW杯フランス大会のときにフランス代表を「外人部隊」のようだと言い、日本代表を「ボーイスカウト」と評した。東洋人の顔は童顔だが、それを差し引いても、両者の経験の差が顔に表れていると言っていい。
| 2004年05月15日(土) |
レッドを出せない腰抜け審判 |
Jリーグ、3位浦和vs4位市原は、3−3のドローだった(浦和ホーム)。前半は市原が浦和を圧倒(2−0)、しかも、浦和の主力エメルソン、長谷部が負傷退場し、市原の楽勝かと思われた。ところが、後半、浦和が岡野、永井を投入して反撃を試みる。浦和やや優勢の時間帯に、市原のGKがオーバータイムをとられ、ゴール近くで浦和が間接FKを得る。JリーグでGKのオーバータイムを見たのは初めてのこと。市原のGKはそれまで、身を挺してゴールを守っていただけに、このミスは悔やまれた。さて、ゴール近くの間接FKは入りにくいのだが、シュートミスが流れてプレゼントボールになり浦和の選手の前に出てゴール。浦和が1−2に追い上げる。 問題のシーンはこの後だ。きょうまったく調子の出ていない浦和の三都主が、自陣ペナルティーエリア付近で右サイドを駆け上がった市原の坂本のフェイントで抜かれた後、故意にその足にキックを入れた。抜かれていればシュートチャンスになっただけに、当然イエローだ。三都主はその前にイエローをもらっているからレッドで退場かと思われた。ところが、主審のOさんはファウルだけ。近くにいた市原のキャプテン阿部が、唖然として抗議するも受け入れられるはずがない。それはないでしょう、Oさん。 Jリーグでは、最近の試合でカードが出すぎる、という話が出たらしい。満員のレッズサポーターの中、浦和が負けている局面。浦和の主力エメルソン、長谷部が負傷退場、そのうえ、三都主までがレッドで退場となれば、サポーターに申し訳ないか――主審のOさんは「試合が壊れる」と判断したのだろうが、とんでもない判断ミスだ。退場者の出た試合は確かに興ざめだが、スポーツにおいて、ルール違反者を放置しておくことの方が許されない。喜ぶのは浦和のサポーターなのかもしれないが、不正な勝利なんかで喜ぶような浦和サポーターではないはずだ。彼らが真のサッカーファンならば。 三都主の行為は、明らかに「汚いプレー」。こういうプレーを主審が許してはいけない。三都主が「汚いプレー」で退場したから浦和は負けたのだという事実を、選手、監督、サポーターが互いに共有し記憶すべきなのだ。三都主には厳しい評価を下すべきなのだ。「汚いプレー」をすれば、自分の評価が落ちる、というのがプロの鉄則でなければいけない。 試合は2−0からPKを含み3点を返した浦和が勝利目前、ロスタイムで市原にPKを与え、結局、3−3のドロー。天罰が下ったようなものか。 「熱戦、熱戦」と連呼する実況アナ氏、「カードを出さず、主審はよく、試合をコントロールしてますね」と奇妙なコメントを発する頓珍漢な解説者(元浦和)は論外。とにかく、後味の悪い試合を見せられた。 カードが出るのは、Jリーグの選手がルール違反をするのが原因なのであって、主審が誤審をしているからではない(と、私は思っている)。もちろん、判断力に問題のある主審の存在も認めよう。 だが、むしろ、この試合のように出すべきカードを出さない主審がいい審判であるかのような評価がまかり通るようでは、Jリーグの将来は暗い。リーグが主審にカードを出すな、とプレッシャーをかけるなど、筋違いもはなはだしい。選手は「汚いプレー」をするな。
サッカーJリーグ東京ヴェルディの森本が注目されている。中学生でJリーグデビューを果たしたのだから、当然だ。日本代表に選ばれるのではないかという評価もあった。さて、森本の評価――私は、評価を控えたい。いまの森本は中学生としては最高のサッカープレイヤーであり、Jリーグのなかでもそれなりに活躍できる選手であることを認めよう。だが、その先はわからない。本人の精進はもちろんだが、精進しても、先は未知数だ。人間は己の身体をコントロールすることができない。いくら努力しても、その成果には限界がある――直前のこのコラムで書いたばかりだ。 たとえば、水泳に岩崎選手という、五輪で金メダルをとった女子中学生がいた。彼女はその後、水泳界で活躍することはなかった。彼女に精進が足りなかったのかどうかは知らない。私の推測では、彼女の運動能力は中学生でピークを迎え、その後、後退したはずだ。運動能力には個体差がある、というのが私の確信だ。私はスポーツ科学の専門家・研究者ではないので、単なる素人の確信にすぎないのだが。 岩崎選手のような極端な例ではないが、私の場合、中学時代、陸上の短距離走の選手としてメダルをとった。ところが、高校生になると、記録が伸びなくなった。私の100m走の自己最高記録は○秒○○だが、それは中学生のときのレコードだ。このような事例はたくさんあるのではないか。繰り返すが、人間の運動能力と成長の関係には個体差があり、必ずしも、年齢とそのピークは合致しない。運動選手には、早咲き遅咲きがあるものなのだ。 だから、森本の運動能力がこれから右肩上がりを描く保証はないし、たとえ、早晩限界に達したとしても、森本の問題ではない。かりに森本の運動能力の向上が止まってしまったとしても、彼の精進・努力不足とは限らない。だから、彼が活躍できなくなったとしても、揶揄したり、批判したりすることは控えよう。このことは、平山(筑波大)にも当てはまる。彼がスーパー高校生であったことは認めるが、そのまま右肩上がりでうまくなるとは限らない。 ブラジルサッカーでは、10代前半でプロ契約をし、ブラジルリーグで活躍する若手選手は日本よりはるかに多いが、そのなかで、ブラジル代表に上り詰めることができる者は限られている。昨年の南米選手権で活躍したサントスの2人の若手、ジエゴ、ロビーニョはどうしているのだろうか。そういえば、サントスの監督のレオンがやめたらしい。もちろん、成績が悪かったからだ。レオンも日本に三度(清水〜V川崎〜)やって来て、ガンバ大阪あたりの監督になればおもしろい。いま、ガンバの得点源になっている長身FW・マグロンをJにつれてきたのは、ヴェルディの監督に就任したレオンだったと記憶している。レオンは若手の才能を見抜くことができる監督の一人だと私は思っているのだが…
きょうは久々に野球中継を見た。読売vs阪神だ。阪神が勝ったようだが、今回のテーマは、試合内容についてではない。この試合を中継するTV局では、イニングの合間、選手のエピソードを流す。今回の登場者は、阪神の赤星選手だった。 赤星選手は、セリーグの盗塁王。スピードがあり、堅守・好走・巧打を売り物にする阪神のリードオフマンだが、その赤星選手は盗塁を決めると、足の不自由な人に、車椅子をプレゼントするという。プレゼントのきっかけは、足の不自由な人から盗塁をどんどん決めてくださいね、と励まされたからだという。足の不自由な(走ることができない)人から、盗塁(走る)の成功を励まされた赤星選手。スポーツ選手として、これほど名誉なことはない。選手冥利に尽きるだろう。それにこたえて、車椅子を送ることを決めた赤星選手。なんとも、心あたたまる話ではないか。 人間は、自分で自分の身体を制御することができない。病気や事故もあるし、どんなに練習をしても、普通の人間は世界記録を出すことも、世界のトップリーグで活躍することもできない。努力すら、その結果については限界がある。だから、人は最高のパフォーマンスを求めて、自らの限界の突破を優れたスポーツ選手に託す。プロスポーツ選手は、その意味で、選ばれた人間であり、その才能は巨額の報酬で報われる。 一方、優れたプロスポーツ選手がスポーツエリートとして認められるのは、自らの夢を託す人々が存在する故である。多くの人の支持がなければ、スポーツエリートという階級はない。このように、スポーツエリートと大衆は弁証法的関係にある。赤星選手(足が速い)は、自らの存在を足の不自由な人(足の否定)の激励を契機に自覚した。そして、「車椅子」によって、スポーツをする側と見る側の関係を止揚した。 プロスポーツ選手は、機会あるごとに、赤星選手のような社会貢献に励んでいただきたい。だれも売名行為とは思わない。スポーツエリートは、自分達が多くの人々の夢に支えられていることに少しでも報いてほしい。なかでも、不幸な境遇にある人の夢にこそこたえてほしい。選手はいいプレーをすることは義務だ。だから義務を果たせばいい、といのでは面白くない。経済的に恵まれているのならば、その分野でいくばくかの還元をしてもいい。それでこそプロフェッショナルであり、スポーツマスコミも選手の社会貢献を積極的に報道してほしい。 盗塁王の車椅子――そんな話をもっと聞きたい、知りたい。
| 2004年05月07日(金) |
うらやましいな、韓国協会 |
報道によると、韓国サッカー協会は6日、辞任したコエリョ氏の後任の代表監督候補として、�.札優�ル前代表のメツ氏、��現ポルトガル代表監督のスコラリ氏、�8愁船絅縫献�代表監督のルメール氏、�ぅ肇襯蛎緝汁梓篤弔離�ュネシ氏、�ゥ屮薀献訛緝集鬼篤弔離襯轡Д鵐屮襯柑瓠↓Ε▲ぅ襯薀鵐病緝汁梓篤弔離泪奪�ーシー氏、�Д▲襯璽鵐船鸞緝汁梓篤弔離僖汽譽藥瓠↓┘�ナダ代表監督経験を持つオジェック氏、��欧州強豪クラブを率いたデルボスケ氏、��同じくテリム氏――(計10氏)をリストアップしたという。韓国協会では5月中旬までに4人程度に絞り込んだ上、今月中に決定する予定らしい。 韓国サッカー協会の人選は申し分ない。さすがだ。日本協会のように監督手腕の定まらない元名選手をいきなり、代表監督に就任させるような暴挙はしない。代表チームの運営をを知っている。極めてオーソドックスな人選だ。 監督交代までの過程がいい。決定までが情報開示されていて、国民にわかりやすい。トップがいきなり、わけのわからない決定を下す、どこかの国のサッカー協会とは違う。 10氏の人選をめぐり、韓国中が盛り上がるのではないか。そういう議論は、サッカー愛好者にとって、たまらない楽しみだ。代表監督の人選の楽しみをサポーターに提供することは、サッカー協会のあるべき姿の1つだ。なにかにつけて、議論する土壌こそが、サッカー文化の成熟につながる。 さて、日本サッカー協会のトップはアイデアマンだといわれている。日本でマイナースポーツだったサッカー。プロリーグを立ち上げるまでには、いくつもの困難が伴っただろう。発足時には無理もしたろう、ローカルルールの採用もやむを得なかったかもしれない。資金集め、サポーター集めのためには、基本を逸脱する面もあった。それらを批判しようとは思わない。黎明期にはいろいろな困難が伴うことは常識だ。しかし、それらはすべて、過去のこと。いまの日本は、02年、共催とはいえワールドカップを開いた国だ。Jリーグの経営基盤は磐石ではないかもしれないが、日本代表の動向が国民的関心事となるに至った国だ。サッカー協会は、サッカーのプロフェッショナルとして、日本のサッカーすべてをリードする主体に成長しなければいけない。そういう意味では、現在の協会会長の資質は、サッカーが文化として定着する時期にはフィットしないのかもしれない。トップダウンの手腕は、黎明期には有効なのかもしれないが、たとえば、代表監督の人選方法をみる限り、隣国に比べて稚拙さが目立つ。 トップがいつまでも、素人的なアイデア優先、大向こう受けのイベント屋的体質を引きずることはマイナスだ。新局面に入った日本サッカーの舵取りを、一体、どこのだれがしたらいいのか。
| 2004年05月05日(水) |
マロッタの屈辱―海外組の真相― |
報道によると、セリエA・サンプドリアのマロッタ・ゼネラルマネジャー(GM)はジェノバ地元紙のインタビュー記事で、FW柳沢敦との契約を今季限りで打ち切る方針を明らかにした。 同GMは柳沢について「このチームでの経験は終わるだろう。柳沢の獲得はアジア地域でサンプドリアの知名度をアップさせるために重要だった」と、チームの海外戦略での価値を強調。「技術面でずばぬけた期待をしていたわけではないが、恒常的に日本代表に招集されフルに力を発揮できなかった」と語ったという。 なんとも、悲しいコメントだ。マロッタGMは、柳沢の存在はサンプドリアにとって、広告塔にすぎなかった、と明言しているからだ。そこまで言うことはないだろうとは思うけれど、欧州サッカーの選手獲得基準が実力だけではなく、ビジネスが相当の割合含まれていることがよくわかる。このコラムでは、海外組を批判し続けてきたけれど、彼らに個人的恨みがあるからではない。彼らが実力とは異なるレベルで欧州チームと契約を交わす実態が私に分かっていたからだ。だから、公式戦であるW杯アジア予選等で彼らを優先的に先発に起用する日本代表監督の意図が理解できなかった。柳沢についての今回のコメントで、海外組とJリーグ組の実力に差がないことがよくわかったわけで、マロッタGMに感謝しなければいけない面もある。ということは、実力が国内組と変わらないのに、明らかにコンディションに問題のある柳沢を先発で起用した日本代表監督の選手起用基準とは何なのか、改めてそのことが問題になる。まさか、欧州チームと契約を交わしたという理由で、先発に起用し続けてきたわけではあるまい。 日本代表監督の誤りはもう1つある。マロッタGMがコメントの後段で、柳沢について「恒常的に日本代表に招集されフルに力を発揮できなかった」と語っている部分だ。これは明らかに、日本代表監督批判だ。柳沢が不本意な成績に終わったのは、フレンドリーマッチにいちいち柳沢を呼ぶ日本代表監督に責任があるよ、と言っているのだから。 観光旅行の経験しかない私だが、欧州と日本の往復はきつい。そこで90分激しい運動をしたとしたらと想像するだけで、心臓が止まりそうだ。いくら鍛えているプロサッカー選手でも、相当な負担となっただろう。 柳沢は二重の意味で悲惨な経験をした。広告塔として利用され、欧州ではベンチで試合に出られなかった、その間、日本代表として、日本〜欧州を往復させられてコンディションを崩し、欧州〜日本の両方で実力を発揮できなかった。海外の経験を積むことは悪いことではないが、海外の契約先について、サッカーができる環境なのかどうかを見極める必要があるようだ。 柳沢の事例は、海外の日本選手全員に当てはまる。だから、代表戦、少なくとも公式戦では、海外〜国内という垣根を外し、調子のいい選手を起用すべし。反対に、国内のフレンドリーマッチでは、俊輔だ、ヤナギだ、というミーハー的サポーターに彼らのプレーぶりを披露することは興行面・集客面で悪いことではない。が、そのために彼らがコンディションを崩し欧州のリーグ戦に出られない要因となるのならば、長い目で見てマイナスとなる。才能のある若い選手をつぶすのであれば、いくら短期的興行で成功しても、日本のプロサッカーの繁栄に寄与しないからだ。 マロッタGMのコメントから、日本代表監督は海外組の扱いについても失敗を繰り返してきたことが分かった。02〜04年、日本代表の空白の2年間と書いたけれど、空白どころではない、柳沢の契約解除を機に、損失の2年間であったことが明らかになった。
| 2004年05月04日(火) |
ベッケンバウアーかく語りき |
「日本には小野、中田という優秀な選手がいる。だが、真の意味でもワールドクラスのプレーヤーはまだ出てきていないと思う。日本代表の強さは個人能力以上に、集合体としての強さにあると思う」 報道によれば、ドイツ代表で現役時代、皇帝と言われたフランツ・ベッケンバウアーは、チェコに勝った日本代表をこう評した。サッカーで一時代を築いた目は、たった1試合の日本代表の戦いぶりを見ただけで、その方向性を的確に言い当てた。ベッケンバウアーの日本代表に対する評価が、このコラムで私が言い続けてきたことと偶然にも一致した。 ベッケンバウアーでなくとも、日本代表にワールドクラスの選手がいないことくらいは分かっている。だが、02年日韓W杯で日本がベスト16の成績を残したころから、日本のスポーツマスコミを中心に、日本サッカーを過大評価する傾向が強まった。W杯後、俊輔、柳沢、高原らが欧州のクラブと契約を交わすことも手伝って、日本代表選手がワールドクラスであるかのような錯覚が日本中に浸透してしまった。その機運に乗って、トルシエ前監督批判を前面に打ち出して登場したのがジーコ新監督だった。組織よりも個人、規律よりも自由といった抽象的「サッカー論」が跋扈しはじめたのだ。このことは、何度もここで繰り返し述べた。 日本サッカーにおいては、選手のレベル向上と、それを取り巻くスポーツマスコミのレベルとにバランスを欠く。冷静なサッカー評論を展開できるスポーツマスコミは少ない。スポーツ新聞、一般紙、テレビは、たとえば、日本代表がフレンドリーマッチで海外の代表に勝っただけで大騒ぎをする。反対に負ければ、エキセントリッな批判をする。ミスをした選手には、厳しい評価が必要なのに、それをしない。海外チームから得点をとれば、「ワールドクラス」の見出しが躍る。重要な公式大会で勝てなくとも、惜敗で終わってしまう。 さて、ベッケンバウアーのコメントに再び、戻ろう。日本代表は、ワールドクラスの選手が11人そろうブラジル代表とは違う。選手個々の能力を高めたいのは当たり前だが、一朝一夕には高まらない。Jリーグが発足して10年経過したが、欧州でレギュラーをはれる選手は小野と中田の2人だけだ。10年間でたった2人。それが日本サッカーの現段階における実力なのだ。 ベッケンバウアーのコメントは、裏を返せば、日本の現段階の実力の程度を語っている。と同時に、サッカーというスポーツは、個々の選手の実力は劣っていても、結束力や組織や精神面で相手を上回ることができれば、試合に勝つチャンスがあることを暗示している。 もし、日本代表の個々の創造性や能力がチェコより勝っているから試合に勝てたのだとしたら、ベッケンバウアーは、「日本の選手はチェコの選手より力が上だ」とコメントしたろう。ベッケンバウアーの目には(もちろんだれの目でも明らかのように)、日本人選手はチェコの選手より劣っている。けれど、組織力で上回っていたので勝てた、と映った。 それが、サッカーにおける勝利の可能性だ。サッカーでは、ランキングの上のチームが常に勝つとは限らないし、ワールドクラスの選手がいなくとも、世界の大会で勝てるチャンスがある。その確率はたとえ30%であってもゼロではない。さらに、ホーム、アウエー、スケジュール、相手側チームの内情(たとえば監督と選手がうまくいっていない等々)といった諸々の要素が勝敗の影に隠れている。だから、サッカーは面白いのであって、個人の能力ばかりを計っていても、そこからはサッカーの楽しさは出てこない。サッカーは、個々の記録で優勝が決まる、砲丸投げや槍投げではない。 サッカーが個人の能力次第だといってしまえば、どんな国際大会であれ、優勝はブラジルに決まってしまう。しかし、現実はそうではない。サッカーが団体競技である以上、組織や規律が徹底していれば強いし、約束事(戦術)が守れられていれば、勝つ確率が高まる。 いま現在の日本代表を強くしたければ、個々の選手の実力を高めるという、およそ20年、30年の期間を要する仕事に取り組もうとしている代表監督を選ぶことは間違っている。そんなことができる時代ではない。いまや、選手は世界中のクラブに散らばっている。国内リーグだって、代表に即座に召集できるとは限らない。そんな状況の中、代表監督のスキルとは、チームに結束力をもたせ、短期間で組織・戦術を構築できることだ。そういう専門技術をもった人物が代表監督にいれば、06年にドイツに行って勝てる可能性が高まる。個々の能力を高める仕事は、クラブに任されている。Jリーグの存在は、だから、重要なのだ。
日本代表監督のジーコの存在を日本人の精神性から語る手法がある。民俗学や社会学を援用して、ジーコ支持・不支持を分析するものだ。 数日前、A新聞にジーコ支持、不支持の特集があった。見ると、支持は永井氏、不支持は後藤氏で、このコラムで取り上げた某TV局のパクリ。困ったものだ。だが、よく見ると、もう一人、某教授がジーコを来訪神信仰と結びつけて書いた部分があった。A新聞、「文化的」装いを付加して、パクリを隠蔽したようだ。 来訪神信仰というのは、客人信仰と同義。農業においては豊作、漁業においては大漁といった福が、彼岸からやってくる神によってもたらされる信仰をいう。人々に福をもたらす神は、人々の生活の場にいろいろな姿をしてやってくる。たとえば、箕の傘をかぶり藁の衣服を身に着けていることもあるし、鬼や悪魔のような異形の者であることもある。また、芸能者、狂人の場合もあるが、いずれにしても、人々は、来訪神をもてなすため、彼らの来訪時に酒、ご馳走を振舞う。農村では田の神と呼ばれ、年に数度、指定された農家にやってくる。 一見、この来訪神信仰はジーコに期待するメンタリティーを説明しているように見えるが、まったく当てはまらない。ジーコをそのように崇拝している層というのは大衆ではなく、川渕キャプテン、A新聞を筆頭とする一部ジーコ信者のマスコミ関係者、鹿島サポーター、一部頑迷なサッカーファンであって、ごく一部の層だからだ。マスコミ人は、自分がジーコを崇拝していると同じように、大衆がジーコを崇拝している勘違いしているようだが、一般サッカーファンは、ジーコなど、どうでもいいと思っているのが実態なのだ。A新聞に代表されるマスコミ関係者は、ジーコが日本代表監督になると聞いて、こりゃすごい、神様が日本にやってくる、と勘違いした。さらに、自分の勘違いを日本国民にまで勝手に拡大し、日本人の大多数がジーコに期待し、ジーコならなんでもかなえてくれると考えていると思い込んでいるようなのだ。だから、前提は「多くの日本人は、ジーコに期待している」となっている。期待しているのは自分なのであって、日本人一般ではない。だから、前提としては、「自分はジーコに期待しているが、期待していない層もある」でなければいけない。そこから出発していれば、期待していない理由として、代表監督経験ゼロの人物がいきなり、日本の代表監督に就任したが、監督手法は未知数ではないか、と話が発展する。ジーコ代表監督に違和感を覚えた人は少数派だろう。少数派の意見は無視すればいい…それが日本のマスコミのやり方なのだ。 私はジーコ監督就任時から、異議を唱えてきた一人だった。さらに、このコラムで書き続けてきたけれど、ジーコ監督就任当初の鹿島偏重の選手選考はじめ一貫性のない選手選考・起用や戦術の未熟さを見て、また、固定メンバー云々の発言を聞いて、こりゃあかん、と思ったものだ。もちろん、ジーコを来訪神などと思ったことは一度もない。 マスコミは、自分達が勝手につくったジーコ神話を三流民俗学者が唱える来訪神信仰で説明させる。このやり口はナチが捏造した「アーリア人神話」の形成手法と同じだ。マスコミ人は権力から与えられた神話を勝手に信じ込み、それをマスコミという手段を使って大衆レベルに拡大させる。自分達の主張では効果が薄いと見るや、「専門家」「知識人」「学者」を利用する。こうして、神話は人々の内側に浸透し、やがて、神話が人々の首を絞めていく。恐ろしい循環運動である。
|