独白2
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2001年10月27日(土) 昔日記

最近よく寝すぎるか寝なさすぎるかのどっちかを繰り返しています。
なんつー日々。無駄の多い日々ですね。
で、今日は休みなんでまだわりと頭のすっきりしている昼間のうちに日記を。
隣で母がサスケの(犬)毛を刈っています。
美容院がお休みだったとか。

時はとても素晴らしく平等に流れていきます。
私はこんな所で日記なんか書いていていいのか。
つーか生きてていいのか。

で、本日のお題は『生きている意味』です。

良い前置きが思い浮かびませんでした。ダメじゃん〜!
今日は母親と進路の話をしていたんですが、どうも私は生きる意志っつーかが足りないのが全面にでているらしく、母はキレた。

「あんたじゃあなんのために生きてるの!アンタ生きてても意味無いじゃない!アンタが生きてて役に立ってるの!?」

何のために生きてるかなんて解りません。
でも他人の役に立っていない人間は存在している時点でいないと思います。
例えば私はこんなにもいい加減で頭が悪くても、クラスの人に迷惑も掛けるでしょうが安心も与えるわけです。
「ああ、私の下にもこんなに頭が悪いやつがいる」
と言う感じ。
存在しているだけで他人の役に立っていないと言うことは無いんだと思います。
でも、それは直接「生きる意味」に繋がるわけではない。
息をしているからと言ってその人の存在に特別な意味が生まれるわけないのと同じに、人が必ずしていることには特別な意味が生まれるわけでは無いんだと思います。

なら生きている意味はどこで生まれるのか。

『自分の感情』
これは誰もが持っていて、誰とも全く同じモノはない。
これがきちんとあって、表に出せて、他の人に現すことができたら、生きる意味に繋がるかもしれない。
何か『自分の感情』で、どうしてもやりたいことができたら生きる意味に繋がるかもしれない。
でも私にはやりたいモノができるほど『自分の感情』がきちんと成立してない。あやふやな靄みたいなモノでしかない。
好き。嫌い。そんな簡単なモノしか判断する事のできないモノだ。
これをしたい、するべきだ。そういうものができるほどできあがっていない。

宗教というのは正にこのことかもしれないと思った。
自分だけの崇めるべきモノがいて、それに従う。=自分だけの感情があって、それに従う。
だったら私はどこかの宗教に入るべきなのかもしれない。
でもそれができないのは、今ある宗教は私の感情にあっていない。
小野不由美の「屍鬼」のように、自分のなかで絶対であるべき神が欲しい、でもそれは現存する宗教にはない。

誰かに導かれて、許されて生きていくことはとても簡単だ。
そして、その絶対であるものが私を導いてくれている時点で生きている意味ができる。
私の中で絶対な物が私の存在を認めてくれるだけで意味ができるんです。
ただそれは同じ「人間」であってはならない。
なぜなら人は「許す」ことも「導く」こともできるけれども、そこに無条件の、本当に自分の利益に繋がる物が無いと言うことがないから。
自分だけの絶対の物=自分の感情だった場合、自分を許す物は自分だから罪悪感はない。
でも自分を許す物がたにんであった場合、許されることで「許させている」と感じるかもしれないし、他人にとって自分は不可欠要素だから許していると無言の重圧を感じるかもじれない。

許し、認めるだけの存在が生きる意味をくれる。でもそこに感情があってはならないから「人間」では成り立たない。
そしてせの役割をしてくれるのが「神様」というもので、神様というのは要するに『自分の感情』なのだと思った。
現存する他人の感情である宗教に従うつもりが無いのなら「自分の感情」を確固とした物にするしかないのだと思う。

昔の人はこんなこと考え無かったのかもしれない。
生きることに精一杯の時代には。
でも今のこの時代は簡単に何も無くても生きることができる。
考える余裕があるから精一杯生きる前にぐだぐだ言っているのかもしれない。
生きている意味を問いただす時点で生きている意味をもう持てないのかもしれないと思った。

なんだか今日はとっても文がおかしい。
頭はハッキリしていたのに頭が悪いからきちんとした物になりません。
矛盾いっぱい。頭悪い。
でもぼーっと考えるより文と言う形にしたほうが自分的にまとまります。
何度も形にしながら書いていけば確固とした物になるのでしょうか。


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